2011/02/13 19:00

『いのちの地平』〜1人称で掘り起こす現実

  「遷延性意識障害」。ご存知でしょうか。その定義によれば、「自力での移動や食事ができず、意思疎通もほとんどできない意識不明の状態が長期間続く重度の障害」をいいます。事故などによる脳損傷が原因で、かつては「植物状態」とも呼ばれました。
  
  1973年、河北新報は「植物人間」というタイトルで、交通事故で意識と体の自由を失った患者と家族のルポを32回にわたってルポしました。交通死亡事故の犠牲者が約17000人にも上り、日清戦争の戦死者を超えたことから「交通戦争」の言葉が生まれた時代です。高額な医療費負担に何の支援もなく、悲惨な家庭崩壊が相次ぎました。
  当時の取材記者の回顧記事(1994年1月15日付)は、連載の反響をこう伝えています。
  「修学旅行の小遣いを節約して送ってくれた中学生。自ら街頭募金に立つことを決めた高校生たち。交通事故で失った娘の思い出を声を詰まらせて語りながら寄金を持参した母親もいれば、取引先を回る度に寄金を募った中小企業経営者もいた。
 その年の8月には宮城県で全国初の救済制度(遷延性意識障害者治療研究事業)が発足。この動きは他の自治体にも広がった。そして国も助成に乗り出すなど、全国から注目された救済制度は『宮城方式』として定着していった」 

  それから40年近く。私たちの耳や関心から遠くなっていた「遷延性意識障害」の実情を今の東北各地で、新しい世代の記者たちが掘り起こしています。昨年12月に始まった「いのちの地平」という連載です。
  副題は「『植物状態』を超えて」。当時はセンセーショナルでも、回復を祈る当事者には受け入れがたかった「植物」という偏見を超えて、沈黙ではなく、当事者たちの意思と言葉を聴き、伝え、人の「生」に新しい地平を共に見出してゆこう−という取材班の思いが込められています。
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  一読者として私が共感したのは、連載の初回(昨年12月15日付)の書き出しでした。「意識不明の重体。そう伝えられた人たちの『その後』に、私たちはどれほど関心を寄せ、目を向けてきただろうか」
  2003年、福島県中通りの中学校であった柔道の練習中の事故。頭を強く打った女生徒の意識は戻りませんでした。両親が起こした裁判を現地で取材した記者が、「意識不明の重態が続く」とだけ書いてきた女性を昨年9月、初めて自宅に訪問、在宅介護の姿に触れました。裁判の記事では伝えられなかった、「もう1つの『その後』」の現実を知ったといういます。
  若い世代は介護保険の対象ではなく、在宅介護をどうしたらよいかの相談に役所は「分かりません」。自分の体の不調を後回しにし、すべてを捧げる母親の愛情に支えられています。医師からは当初、ほとんど回復は無理と言われながら、家族の語り掛けや音楽療法士の努力に、女性は耳を傾け、応えていました。6年前には真っすぐだった脳波検査のモニターの横線が、「大きな古時計」の歌に合わせて波形を刻んでいるそうです。「生きていてくれてありがとう」という母親の言葉で、記者はこの回を結びました。

  それから連載は、「私たち」という1人称で語られています。
  斎藤茂男氏(故人)、本多勝一氏ら、70年代の新聞には1人称で現場を掘り下げましたルポの名手がいましたが、この世界では「書き手自身を登場させない」ことが暗黙の約束事になってきました。それはおそらく、「報道は客観的でなくてはならない」という観念に発するものか、と思われます(大学などで話を依頼された時など、研究者や学生からもよく質問を受けます)。
  新聞記事の大半には人称がなく、署名記事は別として、書き手自身が現れません。当然、取材先で当事者と向き合って話を聴きますが、聴き手の存在を消してその語りを再構成し、独自の調べや検証を加味し、結果として天井のような高い視点に「離れて」現場を眺めるような記事になります。読者もまた、まるでそこにいたかのように現場を眺める感覚の記事になります。

  しかし、そうやって生まれた記事は、いわば隙のない完成品です。取材者・書き手の生の問題意識や、当然あるはずの「きっかけ」、途中経過の疑問や迷い、葛藤、気づきなどは自らの言葉で語られず、再構成された「事実」だけが、読者の前に立ち上がります。
  例えば、本ブログ『自白の心理学』でご紹介した心理学者浜田寿美男さん(奈良女子大名誉教授)は、それを「神の視点」と呼んでいます。例えば警察・検察の「供述調書」なども同様で、書き手(取調官)の存在や取調べ中の生々しいやり取りは登場せず、被疑者が自ら淡々と「事実」を述べる内容に再構成されています。それゆえに密室で「事実」を作られる危うさがある−と、冤罪裁判で供述調書の鑑定作業にも携わる浜田さんは指摘します。

  そもそも生きた現場に「神の視点」などは存在せず、記者は「分からない」ことから出発し、「渦中」に飛び込んで当事者に問い、調べ、伝えるべきことを見つけます。一個の人間としての視点を示す1人称で、ありのままに語り、一緒に歩いて考えてゆくことが、当事者とも読者とも最も誠実に「つながる」方法であろう、と私には思われるのです。

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  連載で心に刺さった記事の1つに、宮城県内のトラック運転手の男性の話があります。
  02年、お盆も働きづめだった男性(当時50代)は、楽しみにしていた奥さんとの十和田湖旅行の前々日、夕食時に職場から緊急の仕事を頼まれ、旅行当日の早朝までハンドルを握りました。その半日後、男性は旅行先で脳梗塞に倒れ、やはり意識が戻らないまま、4年後に在宅で亡くなりました。
  最初の入院先だった秋田の専門病院では、わずかひと月で「今の医学では限界」「転院先をすぐ探して」と迫られました。以後、奥さんは病院や老人介護施設など10数カ所を歩いて、どこからも断わられ、あるいは1年でまた退院を促され、最後は在宅で介護。ベッドの隣に寝て、1日50回以上、たんを取ったそうです。のどに詰まらせれば即、命に関わるからです。介護者は夜中も熟睡できません。取材した記者はこう書きました(昨年12月20日付)。

  「息を引き取る2、3日前から、○さん(男性の名)は涙を流し始めたという。『予期していたのか、それとも何か訴えたいことがあったのか』。呼び掛けに応じず、声も出さない○さんから涙の意味をうかがい知るには、生の名残は短すぎた。
 『絶対、2けた(10年以上)生きさせようと思ったが、あっという間だっ
たねえ』。涙は出なかった。『お父さんには悪いけれど、とにかく寝かせてほしかった』
 学さんが亡くなった日の晩。恵子さんは在宅介護を始めるまで寝起きしていた自分の部屋で、久しぶりの深い眠りについた。」

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  「交通戦争」で亡くなる人の数は今、4分の1に減りました。しかし、記事にもありましたように脳卒中(脳梗塞や、くも膜下出血)が原因の「遷延性意識障害」が、高齢化社会の進行とともに増えているそうです。
  取材班は今年1月、仙台市の脳疾患専門病院と共同で、県内にどれだけの患者がいるのか、初めての実態調査を行いました。
  冒頭の回顧記事で「全国初の救済制度が発足」と紹介されていた宮城県の「遷延性意識障害者治療研究事業」(患者の医療費への助成事業)は、09年度で対象が110人。医療機関、福祉施設を通した今回の調査の結果、実際の患者は968人(ただし回答率6割)に上ることが分かりました(1月31日付1〜2面)。
  それによると、脳卒中は63パーセントを占め、80代、女性がそれぞれ6割。夫を介護し看取った後、自らも脳卒中で遷延性意識障害となったり、認知症も重なったりする例も少なくありません。また、30〜40代では交通事故が主因ですが、50代になると脳卒中が5割に増えます。高齢化社会とともに、どんな人も家庭も当事者となりうる。そんな切実な感想を持ちました。記者たちの調査報道が初めて掘り起こした現実です。

  家族を疲弊させる「たん」の吸引も、本来は医療者にのみ認められたもので、これを介護職にも広げようという法律改正案が、2月中に国会に提出されます。取材班は今、1つの可能な支援策としてその動きを追っています。しかし、政争中の国会が「3月危機」などで解散ともなれば法案は流れ、遷延性意識障害のみならず多くの在宅介護の家族の望みは裏切られてしまいます。とても気がかりなところです。
  

記事中の写真は1973年の本紙連載「植物人間」(昨年12月17日付)