2011/02/06 15:00

被災・復興と地方紙記者〜栗駒耕英で聴く

 新幹線・くりこま高原駅から続く冬の田園風景は、やがて雪深い峡谷の道に変わり、大規模な山崩れの補修工事個所を何箇所も過ぎて、地吹雪の荒れる栗駒山(1627メートル)中腹の高原へ。私たちを乗せたマイクロバスは途中で、タイヤにチェーンを巻いて登りました。秋は紅葉の名所・いわかがみ平が終点のこの県道も、昨年9月17日に全面復旧したばかりです。

 4月から本紙記者になる若者たちの研修に同伴して先日、栗原市の耕英地区を訪ねました。この土地の名は、岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)にまつわるニュースで、誰もが耳にしたことでしょう。避難生活から戻って最初の冬を過ごす耕英の人々話を聴く機会を得ました。

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 標高約600メートル。宮城県丸森町耕野などから旧満州(中国東北部)開拓に渡り、敗戦で引き揚げた人々が1947年、原生林だった現地に入植したのが始まりです。
 イチゴと大根の高冷地栽培、イワナ養殖が主な生業だった耕英は、大地震による周辺の道路崩壊で孤立。住宅全半壊の被害も出て、41戸の住民の多くは昨年7月まで2年余り、ふもとの避難所・仮設住宅での生活を強いられました。
 それでも、「山に帰ろう」と合言葉として、大半の住民が離れ離れになることなく帰宅し、再出発。「開拓1世たち(現在は80代以上)の苦労思えば、われわれが結束して復興に挑まなければ。いろんな葛藤もあったが、その試練が耕英のコミュニティを強めてくれた」と、行政区長の金沢大樹さん(68)は語りました。
 耕英にあった工場の閉鎖、解雇などの苦難を経験した若い第3世代は今、イワナの寒風干しを新しい特産品にする事業に取り組み、豪雪の冬に客を呼ぶ交流できるイベントを探っています。若者の流出は耕英地区の悩みだったが、「震災は、古里で生きてゆこうという決意をさせてくれた」と斎藤仁志さん(30)=やまなみハウス企画開発部=。
 地元の人々は、こうした震災からの復興を「第2の開拓」と呼んでいます。

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 金沢さんは、被災・復興とメディアのかかわりも語ってくれました。  
 震災直後から、公営施設に置かれた避難所には、ワイドショーやスポーツ紙も含めてマスコミが殺到したそうです。疲れた住民がいきなりカメラを向けられたり、疲れて休む施設内に強引に上がり込まれたり、逃げる子どもが追いかけられたり、いろんなことが起きた。また住民の間でも、メディアへの露出や報じられた発言内容で波風が立つこともあったといいます。
 「行政区長という公平なまとめ役の立場から、不安のさなかにある住民を守る立場から、取材者には厳しいことを言わなきゃならなかった」
 「しかし、これから先の復興のことを考えると、マスコミの力も借りなきゃならない」

 金沢さんも、初めての経験で苦心腐心の日々だったそうだ。先の「山に戻るんだ」という決意の言葉は、避難所から7月に移った仮設住宅での住民の相談の場で、総意として生まれました。
  「誰が復興するのか? われわれ被災者が自ら主体となって進んで初めて、周りの人々も応援してくれる。そこがあいまいな『人頼み』では、復興なんてできない」と、当時の議論を振り返ってくれました。
 「それからのことを考えると、メディアの助けは必要だった。当初、殺到したマスコミは姿を消していったが」。そんな気持ちで、金沢さんは、震災発生以来、欠かさず通っていた河北新報の地元記者に声を掛けた、と語りました。

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  翌日、栗駒山の真っ白な山頂が朝日に浮かんだ耕英地区を後にし、記者の卵の若者たちと一緒に、ふもとの若柳支局(栗原市)を訪ねました。
 震災発生時、支局の記者は赴任から2カ月目だったという。”メディアスクラム”状況になった避難所取材の初期、当の記者は「自分はこの先3〜4年はいるだろう。住民を長い目で見守る立場にたとう」と自覚し、難しい距離感を保ちながら行動したそうです。それを、金沢さんも冷静な目で見ていました。
 予期せず声を掛けられたのは、避難所から仮設住宅に移った、被災後1カ月のころだった。「君はここにいるんだね。頼りにしています」
 
 耕英に通じる仮設道路ができたのは同年8月。以来、記者はこれまで「80回は通ってきた」と言う。「耕英の人たちが大好きになった。正直、住むのは厳しいところ。新潟の中越地震では、集団移転した被災集落もあったそうだ。どんなに苦しくても、彼らはそんなことを考えなかった。プライドのある人々だ」
 前日、話を聞かせてもらった耕英の人たちに高倉吉雄さん(53)がいた。勤め先の被災で職を失った元料理長。ふもとの栗原市内外では賃金が安く、仙台に新天地を求める選択もあったのに、「残って復興を助けたい」ときっぱり取材に語ったという。今は、後輩の斎藤さんらと新事業の成功を目指している。
 「取材を受けて新聞に出ることで、自分たちを追い込んで、それを励みにしている」と、高倉さん、斎藤さんは語ってくれました。

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  若柳支局や地元のもう1つの栗原支局、それに応援の報道部記者らも書き継いできた記事に、社会面の随時連載「歩む 前へ」があります(これまで34回)。筆者もファンで、楽しみにしてきました。
 養魚業、介護支援員、郵便局長、温泉宿経営、養護教諭、高校生、畜産農家…。震災とは、地域のあらゆる人と家族、仕事、暮らしを巻き込み、人々はその体験を共有しながら、それぞれの現場から、できるやり方で前へ進んでいる。その一歩一歩が復興への歩みであり、その主体とは一個一個の住民−。
 事実と思いを淡々つづる物語の数々が、そんな主張と取材者たちの共感を伝えてくれます。金沢さんも登場した、このシリーズを私は楽しみに読んできました。
 「いろんな人に話を聴きながら、首長より政治家より重い言葉を聞くし、一人一人が主人公という思いがある。それが、われわれのニュースなのだ、と知りました。震災で耕英の人々と出会い、私の人生も変わりました」
 そこにとどまり、当事者と同じ時間を生きる。それが、地方紙記者の仕事の本質です。 いずれ記者となって地域に飛び立つ若者たちも、感じてくれたでしょうか。


栗駒山おろしで積雪も凍る耕英地区の冬



「震災体験の語り部活動をしたい」と話す金沢大樹さん