2011/01/31 18:50

リテラシーって何?再考〜東宮城野小の教室から

 久しぶりに小学校の教室を訪ねました。「取材」をしよう、という頭の段取りも緊張感も忘れさせてしまう、子どもたちのわいわいという歓声が待っていました。
 仙台市宮城野区の東宮城野小。みんなで18人の5年生が、写真のようにパソコンをのぞきこみながら、映像の番組作りをしているのです
 これは、本ブログ「 リテラシーって何?〜五橋養筆堂」でご紹介した関本英太郎教授ら、東北大大学院情報科学研究科の教員や研究生が指導役となって、「情報って何か? 伝えるってどういうことか?」を実践を通して学ぼう−という小学校との連携授業です。1月28日付の河北新報交流面でも紹介させてもらいました。

 その年頃のわが子がいないと、小学生の教科書を開く機会などなかなかありません。あらためて知ったことですが、5年の社会には「わたしたちの生活と情報」という単元があって、暮らしに深く関わる情報とメディアの役割をじつに詳しく勉強します。
 また、国語の教科書でも、新聞記事を読もう、自分新聞を作ろう、写真の撮り方、インタビュー名人になろう、ニュース番組をつくろう−といった内容を4年から6年まで学びます。
 昔では考えられなかったほど、メディアの影響は子どもたちの成長環境に浸透しており、それゆえにさまざまなメディアの特性を正しく知って、受け取る情報を読み解き、選び取り、自らも表現し人に伝える力を身につける。それが、「生きる力」として必要な時代になったというのです。 

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  さて、東宮城野小の5年生たち。従前見慣れた授業とは景色が違います。子どもたちは、「テレビ班」「新聞班」「CM班」と3つのグループに分かれ、指導役の先生たちを囲んで、パソコンや壁に映したビデオ映像をながめながら、プロさながらの「編集会議」をしていました。
 それぞれにディレクター、インタビュアー、カメラ(ビデオ)、ナレーションなどの役目があり、場面ごとの絵コンテも議論に登場します。

  「材料を集めたから、さあ、きょうはテロップを考えよう。宿題のタイトルも集めるよ」。CM班を指導しているのは、院生で、テレビの仕事経験を持つメディアジャーナリストの後藤心平さん。こういう方々が先生です。
 CMとは、自分たちの学校を街の人たちに紹介する番組のこと。流通関係の会社や倉庫が集まる地元の卸町界隈や、学校のシンボルの木、自慢の「手作り給食」などを撮ってきたそうです。
 「そうそう、もっとあるよね。『あけぼの太鼓』」「校長先生に取材しなきゃ」。なんと、古タイヤの太鼓の演舞で、歴代の6年生が受け継いでいるとのこと。

 「テレビ班」は、東北放送の朝番組「ウィッチン!みやぎ」のリハーサルを午前6時半に訪ね、どんなふうに番組が作られていくのを取材。ディレクターや司会の名久井麻利アナウンサーにインタビューして、その役割も調べました。
 「新聞班」は、河北新報の夕刊の編集会議に入って取材し、朝一番に世界中から集まった情報から、どのようにしてニュースが選ばれるか、を取材してきました。
 「インタビューは面白いけど、(撮った映像の)どこを選ぶかが難しい」と、子どもたちは口をそろえます。限られた時間の番組で、使えるのはごく一部。「どの部分を選ぶか」は、「何を伝えたいか」があらかじめ議論され共有されて、初めてできること。いわゆる、「テーマ」と「編集」です。

 「新聞班」の番組では、みんなで考えたこんなナレーションを吹き込んでいました。
 「ぼくたちは取材で、『玉石混交』という言葉を知りました。よいものもわるいものも入り交じっている、という意味です」
 「新聞社の人たちは、玉石混交の情報から正しいものを選び、読者へわかりやすく伝えるための努力や工夫をしていることを知りました。また、そのような努力をしても、間違って伝えてしまうことがあることを知りました」
 「ぼくたちも情報を扱うときは、その努力を思い出すようにしたい」というのが結びですが、自分たちも番組作りをすることで、情報を伝える側の難しさ、危うさ、それゆえ守るべきことを知り、発信者としてのスキルを学ぶ−というのが、4カ月にわたるワークショップ形式の授業を通しての関本さんたちの狙いでした。

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 「伝えられるのは、ほんとにあったことの一部」という現実を知ることがリテラシー教育の基本−と、先のブログ「リテラシーって何?」で関本さんのお話を紹介しました。このテーマは、私が関本さんらと一緒に催している「五橋養筆堂」の1月29日の講でも再び議論されました。
 テレビや新聞のニュースも、あるいは映画も、ひとつのフレーム(枠=視点=テーマ=時点)を通して事実の一部を切り取って作ります。
 見る側は「フレームの外にあるものに常に感性を働かせる」(関本さん)必要があり、これは東宮城野小のワークショップのように、伝える立場を体験させて初めて説得力を持ちます。受け手としても伝えてとしても、その感性を子どものうちから養うのが、リテラシー教育なのだと思います。
 (あるいは、ある風光明媚な観光写真を見せて後、実際に現地につれてゆき、電線や看板だらけの周辺をいかに巧みに避けて写真が撮られたかを肌で知ってもらうか、とか。こういう幻滅は日常ありますね)

 今年4月からは小学校の国語の教科書で、記事の読み比べ、投稿を書く、新聞を作る、など新聞の活用が大幅に盛り込まれ、社会科の「生活と情報」教育も同様です。ただ、とりわけ社会科で、学校の現場はこの変化への対応に大わらわだそうです。
 それは、情報やリテラシーを体験学習を通して教えられる知識・スキルの研修がこれまで全国でもなかったためです。仙台市では先日、関本さんと市教委が連携し、情報・リテラシー教育の先進地である台湾から指導者を招いた研修会を催しました。東宮城野小のワークショップも、これから貴重な生きたテキストとして活用されることでしょう。

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 新たな対応を迫られているのは、新聞の世界も同様です。子ども向けの新聞媒体も、この新年から全国で次々と登場しています。
 小学校の高学年や中学校でお話をする機会に、「ネットをやっている人」と問うと、クラスのほとんどの子が手を挙げますが、「新聞は読みますか?」との質問には、3〜4人くらいでした。

 東宮城野小でも、番組の編集ソフトを自由に楽しげに扱い、「さすがIT時代の子たち。家にやっとパソコンが登場したころの自分たちとも違う世代」と、担任の30代の先生も驚いていました。

 そんな子どもたちに、新聞というメディアにどう触れてもらえるか。そして、子どもが長年決して主なる「読者」ではなかった新聞が、どう変われるのか。逆に言えば、作り手自身のこれまでの新聞観を、もはや「リテラシーの主体」たる子どもたちの視点も取り入れて、どう変えてゆけるか−というチャレンジングな時だとも言えます。

 学校という場でこれだけ時間を掛けて情報やメディアについての教育を受ける世代も初めてでしょう。メディアの最も鋭く厳しい評価者たちになりうると同時に、最新のメディアも楽々と使いこなすスキルも身につけた「発信者」が、何百万人とこの社会に育ってゆく時代ともなります。
 アカデミックな機関かOJT(現場の職場教育)かの狭い枠で論じ合っていた日本のジャーナリスト教育の根本も、大きく変わりましょう。

 その時、新聞はどう生きるのか? 最後はやはりこの自問になります。