Cafe Vita

 このブログは、仙台在住のジャーナリスト、寺島英弥が2009年から職場で暮らしや文化、日々の出来事をテーマに書いており、11年3月の東日本大震災で中断したままになっていました(以後のブログは『余震の中で新聞を作る』をご覧ください)それから6年ぶりに、もはや職場とは関係なく、また書き出そうと思います。

2017年05月

 どこか懐かしく、ずっと昔に聴いたアメリカンポップスの響きを、イントロを聴いた時から感じました。アルバム「小田日和」の2曲目にある「この街」。何だろう、何だろう、と気になっていました。
 ギターやピアノでなく、ウクレレが軽やかに刻む3拍子のワルツ。合いの手に入る、"パパパッ パパパッ"という乾いたトランペットの三連符。小田和正 YouTube Official Channel」に以前、「『小田日和』制作日誌」という動画を偶然見つけて、とても面白く興味深いものでした。そこで、作曲者本人が「この街」について、「バカラック風に」という話をしていたのでした(私の記憶が正しければ)。 

 バート・バカラックは(米国の作曲家)、私は中学校時代にテレビで初来日コンサート(1971年)を聴いて、彼の独特の音楽に心を奪われました。オフコースのアルバムにも、確か「ワインの匂い」だったかに小田和正さん、相棒の鈴木康博さんのプロフィールがあり、そこに好きな作曲家として、レノン&マッカートニー、メッシェル・ルグランらとともに、バカラックの名前が記されていたと思います。 
 小田さん自身の言葉に触れて、イントロのウクレレは、「雨にぬれても」~「Rain Drops Keep Fallin' On My Head」(映画『明日に向かって撃て!』主題歌)の作曲家へのオマージュなのではないか、と合点がいきました。「この街」のその後の展開にも、やはりバカラックの名曲である「This Guy」や「 Living Together, Growing Together」の世界に通じるような、のどやかでヒューマンな響きが感じ取れます。

 小田さんの曲と言えば、例えば「哀しいくらい」(1981年の『over』)、「緑の日々」(84年の『The Best of My Life』)のような、近寄りがたいほどに張り詰めた高音がいまだ頭を離れませんが、「この街」の歌い手はその対極のようにリラックスし、大人の優しさに満ちています。

 そんなメロディーとサウンドに乗せて歌われる詞は、やはり「雨」という言葉で始まります。「雨は窓を叩き 風はさらに激しく」「人生は思ってたよりも ずっと厳しく」「夢は遠ざかり なんか切なくなる」と、詞だけを読めば暗く悲壮感がにじんできます。が、詞はそこから、まるで雨雲の切れ目からさっと陽ざしがあふれるように、「そんな時は迷わず おもういちど夢を追いかければいい」「何度でも 何度でも また追いかければいい」と大きく温かな励まし、おおらかな救いの歌へと一気に場面転換します。実にスケールの大きな歌だと思います。

 さらに2番の詞は、人生に悔い悩む人の心の内へと入っていきます。「心に残る伝えられなかった想い 愛の言葉も 別れの言葉も ありがとうのひとことも」。誰の心にもある、あの時に伝えていれば、というほろ苦く切ない、取り返しのつかない追憶の痛みでしょう。

 私は、オフコースの「老人のつぶやき」(75年の『ワインの匂い』の最後の曲)を思い起こしました。そこでは、ある老人がやがて来る死を前にした黄昏の中で、自分なりの生き方に悔いはないけれど、「ただ、あの人に私の愛を伝えられなかった それが心残りです」「好きだったあの人もいまでは死んでしまったかしら」とつぶやきます。この曲を聴くたびに、私はまだ20代でしたが、まるで幼い失恋の痛みのように、誰の人生の最期にもそんな切なさ哀しさが待つのだろうと気持ちが沈みました。
 でも、「この街」の詞はそこからまた、聴く人の心の扉をまばゆい光とともに開きます。「その想いを 今 伝えればいい」「いつだって決して 遅すぎることはない」と。 

 ここから曲は、聴き手の視点を「この街」へと向けさせます。「この小さな世界 ささやかな人生 愛すべき人たち」が共に生きる街。バカラックの「 Living Together, Growing Together」(映画『失われた地平線』のナンバー)と響きあう世界です。そして、あなたが決して独りではないことを思い出して、「もういちど夢を追いかければいい 何度も何度でも また追いかければいい」と語り掛けます。
 人生に何か悔いを残した人だけではなく、いま闘病している人、あったはずの未来を断念した人、つらい挫折をした人、愛を告げられなかった人、仕事をやむなく離れた人ーそうした人々、つまりは私たちみんなへの励ましであり、60代後半になった小田さんの人生経験からの言葉でありましょう。

 5月7日にNHKの「100年インタビュー」を観ました。「時は待ってくれない」のタイトルで小田さんの半生と音楽を解き明かしていくという番組でしたが、そこで人生の一番大きな節目として語られたのが、98年に遭遇した自動車事故でした。「死んでもおかしくなかった。あの曲もこの曲も作ってなかった」というほどの苦難から彼を救ったのは、「生きてくれてるだけでよかった」と心配してくれたファンだったそうです。

 それまで、歌はステージやアルバムから聴かせるものだったのかもしれませんが、事故をきっかけに、どうしたら気持ちを返せるかと考え、コンサートでお客の中に入っていく「花道」を作ったといいます。すると、「ほんとにうれしい顔をしてくれるんだ。昔は、恥ずかしく照れくさく、それが抵抗なく手を振れるなんてありえなかった」という自身の大転換と言える変化になり、「生きててくれてよかった、という言葉で素直になれた」と語りました。タイトルとは逆に、誰にでも「時は待っててくれるんだ」とも。

 「この街」とは、そうした作者の人生の歩みから生まれ、巡り合った人々の一人一人を誰も孤立させず、励まし応援し、共に生きていこう、という歌であると感じます。かつての近寄りがたい「孤高の歌」は、誰からも「共有され、つながれる歌」に変わり、「私」の歌は「私たちの歌」に広がりました。それが、今の小田さんの歌の強さなのではないか、と。

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 バート・バカラック

 

 
 

  

 「小田日和」を初めて聴いてびっくりしたこと(K.ODAへの思い込み旅~「小田日和」①参照)。「そんなことより幸せになろう」という冒頭の曲の出だしから、そうでした。あっけにとられた、というか。
 春に心弾むような、とても明るいメロディーで、こう歌われます。

 「そんなことより幸せになろう 誰にも負けないくらい幸せになろう」

 このフレーズがサビになって、最後まで6回繰り返されるのです。
 小田さん、あなたってこういう歌を作る人だったんでしたっけ?~というのが、最初の感想でした。そもそも「幸せ」というストレートな言葉に照れたり、手放しの幸せ感に懐疑的だったり、じゃありませんでしたっけ?

 私が、同時に思い浮かべたのが、同じ小田さんの「倖せなんて」という曲。これはもう1975年に飛んで、オフコースのアルバム「ワインの匂い」に入っています。こんな歌です。
 「どんなにあなたを愛しても愛されても あふれるほほえみに包まれた時でも」「よく晴れた午後には誰も知らない街へ ひとりで消えていきたい」「倖せなんて 頼りにはならないみたい」
 この詞が、ジャンジャンジャン スッチャチャンチャン というゆっくり重たいストロークのギターに乗せて歌われます。挽歌の足取りのようでもあり、憂鬱でけだるい気分をそのまま音にしたように、心が晴れぬまま曲は終わります。

 そんな昔の歌を引っ張り出さなくとも・・と言われそうですが、この「ワインの匂い」と76年の「SONG IS LOVE」は、人生で一番多く聴いたアルバムの中に入ります(その後の「JUNCTION」「FAIR WAY」まで、二人組だった時代)。しかも、あれこれ多感で理由もなく揺れやすい?大学生のころ。「愛し愛されるあなた」がいるのに、心はどこかうつろに孤独で、「幸せなんて」「どこかへ消えていきたい」という世捨て人のような漂白願望が消えていかない・・(そんな「あなた」は現実にいませんでしたが)。

 このどうにも頼りない感覚はオフコース前期(二人組時代)の小田さん歌に通底していて、「僕にとってほんのささいな言葉のやり取りも いつも先のことばかり考えていたから あなたにしてみれば離れていくように見えたの」という「別れの情景(2)~もう歌は作れない」(74年のアルバム「この道をゆけば」)から、「こんなことは今までなかった ぼくがあなたから離れていく」という「秋の気配」(77年の「JUNCTION」)に続いていきます。そして、最後は「心 はなれて」の絶唱になるまで(81年の「over」)。

 それゆえ、「そんなことより幸せになろう」と歌われるのは、大げさに言えば人生観、世界観が180度変わるような出来事で、自分にしても当然すぎることですが、時の流れや変化を思い切り感じたわけです。そのあたりは、小田さんのライブに通われたり、リアルタイムで一緒に歩いていたファンは違うのだろうと思います。ただ、大震災や原発事故の現実に何年も生きて、「幸せ」という言葉が周りから消えていた中で、自分にはとても衝撃的に響いたのでした。

 どこか心離れる危うい距離感にあった「あなた」は、「そんなことより幸せになろう」では目の前におり、「ぼく」は励まし、勇気づけています。なんて力強い言葉が語られているのでしょう(以下は大意です)。

 「どうして、そんなにつまらないことばかり気にしてるの?」「時は過ぎて変わっていくのに、自分だけそこにとどまって悲しみを探している」「まわりのすべてを受け入れて、変わっていこうとする勇気があるなら」「いつだって主役は自分なんだ。誰かと比べるなんて、やめなよ」「そんなことより、胸を張って、歌でも歌うように楽しくいこうよ」「何とかなるよ、気持ち一つで。心配せず、明日に任せよう」

 かつての微妙な関係はすっかり変わってしまいました。目の前にいる、あるいは、いろんな悩みの中にいる誰かに向けて、じかに語り掛ける。それが、小田さんの歌のいまであり、「誰のために歌うか」という大きな問いへの答えなのでは。それを、自分にも語り掛けられたように感じたのでした。(続きます)

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 「言葉にできたら~K.ODAへの思い込み旅」と、ちょっと大げさな題の一文を書いたのが、2015年の1月12日でした。大学2年の時に出合ったオフコース、そして解散後の小田和正さんのアルバムをもう一度聴き通してみよう、という極私的な心の旅を思い立ったのです。が、「一年の計は元旦にあるも三日坊主に終わる」というセオリー通りに2年半近くが過ぎてしまいました。「Cafe.Vita」というブログを再開するに当たり、まずはこの幻のプロジェクトから始めようと考えました。ファンの方はたくさんいらっしゃるのを承知で、「極私的」という但し書きにてお許しいただけたらと願います。
 
 それで、「小田日和」です。発売されたのは14年7月(ソロになって9枚目のオリジナルアルバム)でしたが、実際に私が買って聴いたのは昨年です。「そうかな 相対性の彼方」(05年6月)までは、村上春樹の小説と同様、アルバムが出るたびにフォローしていたのですが、11年3月11日の東北の大震災と福島第1原発事故が起きて以後、そんな余裕はなくなりました。村上春樹の小説も、読めなくなった、というか、読む気持ちが起きなくなりました。私は記者を仕事にしていますが、被災地の現実を目の当たりにし、当事者たちの苦難に触れる毎日の中で、その一つ一つの「事実」の前にフィクションの意味が分からなくなり、癒しにならず、受け付けなくなりました。その当時、多くの作家や音楽家が大震災と向き合った創作に取り組み、盛んに発表してきました。仕事で仙台にて見聞する機会もありましたが、どうしても自己満足臭のある「外側」の遠くの出来事という以上の感想はありませんでした。

 震災直後の
「どーも」の発売(11年4月)もずっと知らないまま、「小田日和」を手にしたのは14年の秋ではなかったか、それも偶然、Amazonで見つけたと記憶しています。そういうのって、無意識でも、心が求めている時なんですよね。聴いた最初の感想は「びっくりした」でした。心にじかに入ってくる小田さんの歌に、自分だけが知らぬ間に流れていた時の変化を感じて、何度も聴き入っていました。そして、「どーも」も買い求め、ブログでの「言葉にできたら~K.ODAへの思い込み旅」なる極私的試みを思い立った、という経過です(恥ずかしながら「言葉にできない」をもじった題です・・)。なぜ、びっくりしたのでしょうか。そこから始めてみます。(続く)

 
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