Cafe Vita

 このブログは、仙台在住のジャーナリスト、寺島英弥が2009年から職場で暮らしや文化、日々の出来事をテーマに書いており、11年3月の東日本大震災で中断したままになっていました(以後のブログは『余震の中で新聞を作る』をご覧ください)それから6年ぶりに、もはや職場とは関係なく、また書き出そうと思います。

2017年02月

2015/01/12 21:20

言葉にできたら~K.ODAへの思いこみ旅

 この記事のタイトルの「K.ODA」は、小田和正さんのことです。私にとって音楽へののめり込み方では、ビートルズ、大瀧詠一さんもありますが、オフコースが一番でした。青春の音楽といってよかった。ビートルズの解散は1969年、小学6年の時で、リアルタイムでの興奮やショックを知らず、レコード収集熱も高校時代になっての追体験でした。

 オフコース好きになったきっかけは、はっきりしています。東京の大学2年生だった1976年の12月。福島大にいた相馬高の同級生の下宿に泊まり、福島市郊外のスキー場に滑りに(転びに)通いました。友人らも加わった夜の麻雀のさなか、彼はうるさいくらい歌っていたのです。「あーなーたがーそーこーにいるーだーけでー わーたーしのーこーこーろーはーふるえーているー」「そのたーめいーきはー たーいくーつのーせーい」

 何なんだそれは?と迷惑がって聞くと、「オフコースの新しい歌だ」と言います。オフコース?? 彼は後で、薄緑色のジャケットのLPレコードを見せてくれました。それが、『SONG IS LOVE』(4枚めのアルバム)。繰り返し聞かされた歌が頭を離れなくなり(前者が『めぐる季節』、後者が『こころは気紛れ』)、気になって、私もついに郷里の初売りで買ってしまいました

 

 ポップな「眠れぬ夜」(75年のアルバム『ワインの匂い』収録)はラジオで聴きました。。ですが、ニューミュージック全盛のそのころ、オフコースはかなりマイナーな存在で、周囲で知らない男子がほとんどで、知っている奴からは「BUZZの系統。歌詞は少女趣味」と不人気でした。当時、仲間とフォークギターをかき鳴らす夜は、ビートルズやサイモンとガーファンクルを別にすれば、拓郎、陽水、アリス、風、かぐや姫、小椋佳(『俺たちの旅』が人気だった)、グレープ(少女趣味ぎりぎりの境界)などが好まれ、時代柄「みんなで歌って、気分よくハモれる」のが基本でした。

 それでも、私は引き込まれました。デュオだった小田さん、鈴木康博さんのハモリが、当初は聞き分けられないくらい溶け合って、メロディーもアレンジもお洒落で斬新、複雑で、謡曲っぽさとは対極にありました。何よりも2人の柔らかく美しいハイトーンボイス、繊細で都会的で大人びた詞が、満たされぬ憧れや心のうつろい、青春の切なさや痛みを、じかに刺激しました。とりわけ、小田さんの歌うのが照れくさいほど陶酔的な叙情(このあたりが“少女趣味”の評価にもなったか)と、鈴木さんの凝り性でリズミックな曲作り、やや男っぽい詞が、アルバムで交互に並び、不思議なバランスの世界がありました。(周囲の無理解の中、大学祭のフォーク喫茶で何とか(コードが難しい・・と言われながら)『眠れぬ夜』を歌わせてもらえました)

 

 ともあれ私の個人史的には、それから約40年、中断はあれども、オフコースとその後の小田さんの歌を聴いてきたことになります。「なぜか」「魅力は何か」を問うと、とても一言で語れません。あまりに多くの思い出に結びついた、人生のBGMだったからです。

 とりわけデュオの時代の歌は、よく聴きました。アルバムで言えば、73年の「僕の贈りもの」から78年の「FAIRWAY」(洗練の極致でした)までの6枚は、今でも、どの曲も空で歌えます。しかし、その後には変化が生じました。79年、3人の新メンバーを加えバンド色を強めたアルバム「Three anTwo」の内容に違和感を抱き、やや歌謡曲っぽく感じた「さよなら」の大ヒットに彼らのポリシーの変化を感じ、翌80年の「We are」(『私の願い』など名曲がありましたが)を最後に、アルバムを買い続けた歴史は途切れました。

 その違和感の通り、やがて相棒の鈴木さんの脱退話が現実になり、「2人のオフコース」の時代を愛しすぎた私にとっても、彼らから「卒業」する潮時になってしまいました。「over」(81年)、「I LOVE YOU」(82年)は、思い出した頃にミュージックテープを買って車で聴きました。ただ、「We are」と「over」をつなぐと、「僕たちは終わった」の意味のメッセージになっていたこと、小田さんの「言葉にならない」「心はなれて」などの曲が、鈴木さんとの別れに痛切な思いを込めた歌であったことを知りました。

 

 その後のオフコースが本当に解散する89年まで、そして、小田さんがソロになっての90年代は、ほとんど私の関心外のミッシング・リングになっていました。テレビで「東京ラブストーリー」を観るたびに流れた「ラブストーリーは突然に」などは例外としても。

 小田さんの歌との再会は、2000年のアルバム「個人主義」(ソロになって5枚め)でした。

 

 『不思議だね 2人が こうして 会えたこと そのために 2人こゝへ 生まれて 来たのかな
 1カ月ほど前か、ラジオから流れた歌に思わず聴きほれて、すぐCDを買ってしまった。小田和正の「個人主義」というアルバム。冒頭の曲「woh woh」をはじめ、どの歌のメロディーも詩も、優しく懐かしく、青春を過ごした1970年代のにおいを漂わせる。
 小田は、当時一世を風びしたグループ「オフコース」の元メンバー。東北大で建築を学んだんだから、仙台にファンは多いことだろう。
 昔はオフコースが大好きで、東京の大学祭のフォーク喫茶で歌ったくらい。いろんな思い出が歌に絡まっている。でも、社会人になってからパッタリ聴かなくなり、かれこれ20年だ。
 「再会」した小田は一世代上、もう52歳だが、娯楽面で見つけたインタビュー記事で語る。「みんな昔は夢を抱いていた。後ろ向きじゃなく、そのころをふと思い出すのも大切。みんな元気だそうよってね」
 職場には、生年を聞くとガックリくるような若い人が年々増えてきて、カラオケも今は肩身が狭い。でも、「70年代は遠くなりにけり」なんて言わない。帰れる原点があると思えば。

 

 これは2000年6月4日の河北新報に書いたコラムですが、初めて「個人主義」を聴いた時の上のような感想と、いま同じアルバムを聴いて心に湧くものとは違っていると感じます。小田さんのその後の「そうかな 相対性の彼方」(05年)、「どーも」(11年)、最新の「小田日和」(14年)を聴くとますます、その感を強くします。オフコースに夢中だった大学生の頃とはまったく違う力で、心が動かされ、癒されているのを感じます。時は変わり、人は変わり、予期せぬ再会があり、あの頃は聞こえなかったものが聞こえてくる―。小田さんがいま歌っている詞のメッセージそのものではないか、とも思われます。

 そこで、やってみたいことができました。自分が過ごしてきた年月で聴き忘れたもの、聴くのを拒んだもの、聴きなじんだものを、いまから過去にさかのぼってアルバムを聴き直した時、それまでのミッシングリングを埋めた時に、何が聞こえてくるか。小田さん、オフコースの時代の歌が自分にとってどんな意味があったのか、いまこの時に、どんな意味を発しているのか。そんな「言葉にできない」でいたものを言葉にして、解き明かしてみたいという「思いこみ旅」です。できたら、彼らの出発点のアルバムだった「僕の贈りもの」までたどり着けたら。

 まったく個人史的興味、価値しかないもので、更新もあてのない随時となりそうですが、時々のぞいていただけたら。


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2011/02/23 01:30

誰に向けてニュースを選ぶ?〜『JCEJ』のワークショップから

  ポータルサイト・YAHOO!のトピックス、ご覧になりますか。私も新しいニュースをよくチェックします。ちなみに、この文を書き始めた時点のラインナップは以下のようなものでした。引用させていただきます。内容を当ててみましょう。

 1 自民と経団連 予算対応平行線 
 2 離島奪還 民間船転用を検討  
 3 不正アクセス 小4女児を補導
 4 続くデモ いらだつエジプト軍
 5 ガムかむと、正答率15%アップ
 6 終了間際 GKヘッドで同点弾
 7 オリ駿太「内容良すぎ」1軍へ
 8 原西の「大好き」に藤本号泣

  1は、すぐ分かりますね 2 離島が他国に占拠されたら、自衛隊の即応に民間船を借りよう、という話 3 ネットのゲームサイトで他人のIDを不正に使った小学生の話 4 エジプトで市民がさまざまな生活要求を掲げたデモの広がりに、いらだつ軍の話
  5の正答は何でしょう? 高齢者にガムをかんでもらい、写真の組み合わせを問うた調査で、2割の人が正答率を15%アップさせたという話 6はスペイン・サッカーで、試合終了間際に攻撃参加したGKが同点引き分け弾を決めた話 7は、オリックスの新人の予想以上の出来に、岡田監督が1軍帯同を決めた話 最後の8は、アイドルと結婚式を挙げたお笑いコンビの男性に、相棒がエールを送って大喝采という話。

  事前に他のメディアのニュースを知っていれば別ですが、私は1と4以外は、「奪還?」「え?女児が何?」「ガムをかむと脳にいい?」「オリ駿太って?」「”原西”ってお笑いだっけ?」と、謎が次々に浮かんで、気になってみなクリックしました。それが見出しを付けたトピック編集者の狙いなのでしょうか。

                          ◇

  私は駆け出しの頃、新聞のレイアウトや見出しを作る整理部を経験しました。もちろん今も毎日、見出しにはお世話になっています。
  新聞記事は、主見出し(8〜9文字)と脇見出し(11〜12本)でまず表現されるのが、長年の基本です。新聞の場合には、それが簡にして潔で、主語が明確に分かり、内容が正しく一目で、忙しい読者にも伝わらねばならない−という鉄則があります。
  熟練すると、まるで俳句や小話のむように、「なるほど」と読み手をにニヤリとうならせる職人芸にもなります。  

  それに比すると、YAHOO!トピックスは、13文字の1本見出しで、必ずしも主語は示されず、それだけで完結したものにはなっていません。 どんなポリシーがあるのでしょう。 YAHOO!JAPANの伊藤儀雄さん(編集本部メディア編集部)にお話を聴く機会がありました。
  それによると、YAHOO!ニュースは、月刊44億5000万ページビューがあり、内外100以上の報道機関と連携し、1日3500本以上のニュースを伝えているそうです。
  独自の取材体勢はなく、マスメディア、新しいメディアを含めて「いま、何が伝えられているのか、を伝えるメディア」を役割とし、リアルタイムで機械的に流す速報とともに、より高い価値のニュース24時間3交代のスタッフが選ぶ8本の「トピックス」がある、とのこと。
  8本の構成は、1 国内 2 地域 3 海外 4 経済 5 コンピューター 6 サイエンス 7 スポーツ 8 エンタテイメント−だそうです。  

  さて、なぜ「13文字」なのか?−について伊藤さんは、「人間が意識しなくても(一目で)内容を読み取れる限界が13文字」という根拠の学説があることを紹介し、また主語やキーワードの固有名詞がなくても13字内で「それを読み手に想起させればいい」をルールにしているそうです。
  
  新聞社の昔の整理部は、「見出し1本 たばこ◯本」などと言われ、整理記者の机の灰皿は吸い殻の山、部屋も煙がもうもう。締め切りに追われる見出し作りはストレスのたまる作業でしたが、上記の例のように、YAHOO!ニュースのスタッフの苦心も同様かもしれません。

                     ◇ 

  伊藤さんのお話は、「日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)」(同face book)が2月19日、YAHOO!JAPAN(東京・赤坂)との連携で催したワークショップの一環でした。
  JCEJは、本ブログでも何度か紹介しました「スイッチオン・プロッジェクト」から発展した団体で、「発信し、伝え、表現する人々を『ジャーナリスト』ととらえ、必要とされるスキルや倫理について、組織や媒体、立場の違いを超えて『個』として学び合う『場』を創ろう」(呼びかけ人の代表運営委員・藤代裕之さん)という活動を始めました。
  
  ワークショップは13文字の見出し作りの解説を枕に、1 編集方針をつくる 2 当日のニュースのうち約60本から5本を選ぶ 3 見出しをつくる 4 選んだニュースの並びを考える 5 なぜ、その5本なのかを発表する−という内容でした。
  参加したのは、学生のほか、広告、雑誌、新聞、ネットなどのメディアに携わる人、研究者ら。 5人ほどのグループに分かれ、それぞれが「ミニ編集部」を体験しました。

  1の編集方針とは、つまりは「誰を読み手として、何を目的に、どんな役に立つニュースを提供するか」ということ。
  それが決まらないと、机の上に広がった種々雑多なニュースのどれを選んだらいいか−も当然ながら、決まりません。あふれる情報の海に漂うだけです。 私が入ったグループを例に、その作業のプロセスを紹介しましょう。まずは、5人の議論で始まりました。

   「池上彰さんはなぜ、あんなに引っ張りだこなのか?」
  「ニュースにあまり触れない子どもたち向けは?」
  「ワイドショーしか見ていないという人に、分かりやすく伝える−というのは?」
  「日本に住んでいる外国人に、日本を理解してもらえるようなニュースとか」
  「でも、ページビューの数字をを無視していいのか?」
  「ツイッターで話題にできそうな面白い話題がいい」
  「あんまり柔らかすぎるのはどうか。突っ込みどころがないと…」
  「意識の高い人にしか読まれない、というのもどうか」
  「面白いのがいいのか、ためになるものがいいのか?」
  「忙しい就活生のための時事ニュースはどう?」
  「就活生は、ニュースを見てないと企業面接でまずいよ」
  「企業の人が話す話題が分からない、というのが怖い」  
  「でも、就活生もたまにはホッとしたい。そんな話題も欲しい」
−などなど、じつにいろんな意見が出ました。

                     ◇

  そして、決まった編集方針が「就活生を応援するニュースサイト」。就職の現実と接する大学生と院生のメンバーの切実な意見が通りました。では、どのように5本のニュースを選ぶのか? 
  グループの議論で、その1本1本を、ジャンルではなく、「就活生のニーズ」から選ぶことになりました。こんなふうです。

  1 きょうの日本を読む1本 (就活に役立つ) 
  2 ;自分たちの世代に直結(または影響)する話題
  3 ツイッターの話題にして、友人とコミュニケーションできる話題
  4 押さえておきたい1本 (就活や友人との話題にも使える)
  5 世界や社会への知見を養うコラム/リポート

  このうち1には、自分の意見をまとめて投稿し、他の人たちの考えも知ることができる「コメント機能」を付ける−というアイデアも出ました。
  こんな編集方針で実際に用意されたニュースから、初めて5本を選ぶことができました。

  他のグループからは、「飲み屋でつい話したくなる」、「ネガティブなニュースを扱わない」、「ソフトバンクの孫社長との最終面接を控えた○○くんに役立つ」といったニュースサイト、自分よりも落ち込んでいる人がいることを知る「残念なニュース」を集めたサイト〜などの提案がありました。
  バーチャルな実験ではありますが、それぞれに集った5人ほどの顔ぶれが異なるだけで、こんなにも「伝えたい誰か」も違ってくるのです。「誰でも発信できる」時代のメディアの可能性の多様さとともに、そうした「個」の当事者たちの多様なニーズに応えきれなくなったマス・メディアの「選ばれない」危機をも示唆しています。
  また、その過程で選ばれず、捨てられたニュース(永田町発の記事がそうでした)に価値がないのでなく、−それもまた本来誰に向かって何が伝えられたらよかったのか−の検証も、同時に必要となりましょう。
  
   情報を選ぶ、活用する、伝える−は、本ブログの「リテラシーって何?再考〜東宮城野小の教室から」で紹介した、仙台の小学5年生たちが授業で自分たちのニュース番組づくりをすることから学んだプロセスでもありました。
  「誰に向かって、何を伝えるのか」の議論は、逆に言えば「どんな人が、どんな情報を必要としているのか」を考えることであり、さまざまな「当事者のニーズに応え、役に立ち、手助けできる」という、「つながるメディア」づくりの方法でもあります。
  
  この逆転の発想のワークショップ、新聞の若い記者たちにもぜひ体験してもらいたくなりました。


  机の上はニュースの海・・・


  編集方針を書き出し、5本のニュースを選ぶ

2011/02/13 19:00

『いのちの地平』〜1人称で掘り起こす現実

  「遷延性意識障害」。ご存知でしょうか。その定義によれば、「自力での移動や食事ができず、意思疎通もほとんどできない意識不明の状態が長期間続く重度の障害」をいいます。事故などによる脳損傷が原因で、かつては「植物状態」とも呼ばれました。
  
  1973年、河北新報は「植物人間」というタイトルで、交通事故で意識と体の自由を失った患者と家族のルポを32回にわたってルポしました。交通死亡事故の犠牲者が約17000人にも上り、日清戦争の戦死者を超えたことから「交通戦争」の言葉が生まれた時代です。高額な医療費負担に何の支援もなく、悲惨な家庭崩壊が相次ぎました。
  当時の取材記者の回顧記事(1994年1月15日付)は、連載の反響をこう伝えています。
  「修学旅行の小遣いを節約して送ってくれた中学生。自ら街頭募金に立つことを決めた高校生たち。交通事故で失った娘の思い出を声を詰まらせて語りながら寄金を持参した母親もいれば、取引先を回る度に寄金を募った中小企業経営者もいた。
 その年の8月には宮城県で全国初の救済制度(遷延性意識障害者治療研究事業)が発足。この動きは他の自治体にも広がった。そして国も助成に乗り出すなど、全国から注目された救済制度は『宮城方式』として定着していった」 

  それから40年近く。私たちの耳や関心から遠くなっていた「遷延性意識障害」の実情を今の東北各地で、新しい世代の記者たちが掘り起こしています。昨年12月に始まった「いのちの地平」という連載です。
  副題は「『植物状態』を超えて」。当時はセンセーショナルでも、回復を祈る当事者には受け入れがたかった「植物」という偏見を超えて、沈黙ではなく、当事者たちの意思と言葉を聴き、伝え、人の「生」に新しい地平を共に見出してゆこう−という取材班の思いが込められています。
                              ◇

  一読者として私が共感したのは、連載の初回(昨年12月15日付)の書き出しでした。「意識不明の重体。そう伝えられた人たちの『その後』に、私たちはどれほど関心を寄せ、目を向けてきただろうか」
  2003年、福島県中通りの中学校であった柔道の練習中の事故。頭を強く打った女生徒の意識は戻りませんでした。両親が起こした裁判を現地で取材した記者が、「意識不明の重態が続く」とだけ書いてきた女性を昨年9月、初めて自宅に訪問、在宅介護の姿に触れました。裁判の記事では伝えられなかった、「もう1つの『その後』」の現実を知ったといういます。
  若い世代は介護保険の対象ではなく、在宅介護をどうしたらよいかの相談に役所は「分かりません」。自分の体の不調を後回しにし、すべてを捧げる母親の愛情に支えられています。医師からは当初、ほとんど回復は無理と言われながら、家族の語り掛けや音楽療法士の努力に、女性は耳を傾け、応えていました。6年前には真っすぐだった脳波検査のモニターの横線が、「大きな古時計」の歌に合わせて波形を刻んでいるそうです。「生きていてくれてありがとう」という母親の言葉で、記者はこの回を結びました。

  それから連載は、「私たち」という1人称で語られています。
  斎藤茂男氏(故人)、本多勝一氏ら、70年代の新聞には1人称で現場を掘り下げましたルポの名手がいましたが、この世界では「書き手自身を登場させない」ことが暗黙の約束事になってきました。それはおそらく、「報道は客観的でなくてはならない」という観念に発するものか、と思われます(大学などで話を依頼された時など、研究者や学生からもよく質問を受けます)。
  新聞記事の大半には人称がなく、署名記事は別として、書き手自身が現れません。当然、取材先で当事者と向き合って話を聴きますが、聴き手の存在を消してその語りを再構成し、独自の調べや検証を加味し、結果として天井のような高い視点に「離れて」現場を眺めるような記事になります。読者もまた、まるでそこにいたかのように現場を眺める感覚の記事になります。

  しかし、そうやって生まれた記事は、いわば隙のない完成品です。取材者・書き手の生の問題意識や、当然あるはずの「きっかけ」、途中経過の疑問や迷い、葛藤、気づきなどは自らの言葉で語られず、再構成された「事実」だけが、読者の前に立ち上がります。
  例えば、本ブログ『自白の心理学』でご紹介した心理学者浜田寿美男さん(奈良女子大名誉教授)は、それを「神の視点」と呼んでいます。例えば警察・検察の「供述調書」なども同様で、書き手(取調官)の存在や取調べ中の生々しいやり取りは登場せず、被疑者が自ら淡々と「事実」を述べる内容に再構成されています。それゆえに密室で「事実」を作られる危うさがある−と、冤罪裁判で供述調書の鑑定作業にも携わる浜田さんは指摘します。

  そもそも生きた現場に「神の視点」などは存在せず、記者は「分からない」ことから出発し、「渦中」に飛び込んで当事者に問い、調べ、伝えるべきことを見つけます。一個の人間としての視点を示す1人称で、ありのままに語り、一緒に歩いて考えてゆくことが、当事者とも読者とも最も誠実に「つながる」方法であろう、と私には思われるのです。

                              ◇

  連載で心に刺さった記事の1つに、宮城県内のトラック運転手の男性の話があります。
  02年、お盆も働きづめだった男性(当時50代)は、楽しみにしていた奥さんとの十和田湖旅行の前々日、夕食時に職場から緊急の仕事を頼まれ、旅行当日の早朝までハンドルを握りました。その半日後、男性は旅行先で脳梗塞に倒れ、やはり意識が戻らないまま、4年後に在宅で亡くなりました。
  最初の入院先だった秋田の専門病院では、わずかひと月で「今の医学では限界」「転院先をすぐ探して」と迫られました。以後、奥さんは病院や老人介護施設など10数カ所を歩いて、どこからも断わられ、あるいは1年でまた退院を促され、最後は在宅で介護。ベッドの隣に寝て、1日50回以上、たんを取ったそうです。のどに詰まらせれば即、命に関わるからです。介護者は夜中も熟睡できません。取材した記者はこう書きました(昨年12月20日付)。

  「息を引き取る2、3日前から、○さん(男性の名)は涙を流し始めたという。『予期していたのか、それとも何か訴えたいことがあったのか』。呼び掛けに応じず、声も出さない○さんから涙の意味をうかがい知るには、生の名残は短すぎた。
 『絶対、2けた(10年以上)生きさせようと思ったが、あっという間だっ
たねえ』。涙は出なかった。『お父さんには悪いけれど、とにかく寝かせてほしかった』
 学さんが亡くなった日の晩。恵子さんは在宅介護を始めるまで寝起きしていた自分の部屋で、久しぶりの深い眠りについた。」

                         ◇

  「交通戦争」で亡くなる人の数は今、4分の1に減りました。しかし、記事にもありましたように脳卒中(脳梗塞や、くも膜下出血)が原因の「遷延性意識障害」が、高齢化社会の進行とともに増えているそうです。
  取材班は今年1月、仙台市の脳疾患専門病院と共同で、県内にどれだけの患者がいるのか、初めての実態調査を行いました。
  冒頭の回顧記事で「全国初の救済制度が発足」と紹介されていた宮城県の「遷延性意識障害者治療研究事業」(患者の医療費への助成事業)は、09年度で対象が110人。医療機関、福祉施設を通した今回の調査の結果、実際の患者は968人(ただし回答率6割)に上ることが分かりました(1月31日付1〜2面)。
  それによると、脳卒中は63パーセントを占め、80代、女性がそれぞれ6割。夫を介護し看取った後、自らも脳卒中で遷延性意識障害となったり、認知症も重なったりする例も少なくありません。また、30〜40代では交通事故が主因ですが、50代になると脳卒中が5割に増えます。高齢化社会とともに、どんな人も家庭も当事者となりうる。そんな切実な感想を持ちました。記者たちの調査報道が初めて掘り起こした現実です。

  家族を疲弊させる「たん」の吸引も、本来は医療者にのみ認められたもので、これを介護職にも広げようという法律改正案が、2月中に国会に提出されます。取材班は今、1つの可能な支援策としてその動きを追っています。しかし、政争中の国会が「3月危機」などで解散ともなれば法案は流れ、遷延性意識障害のみならず多くの在宅介護の家族の望みは裏切られてしまいます。とても気がかりなところです。
  

記事中の写真は1973年の本紙連載「植物人間」(昨年12月17日付)

2011/02/09 21:30

"Facebook"と革命〜エジプトも変えた「情報の自由」

 40年も前のことを告白しますと、中学校のクラスで学級新聞を作っていた折(いちおう名称は新聞部)、仲間と思いつきで学年女子の人気投票を企画したことがありました。男子は投票で盛り上がりましたが、結果発表の張り紙は、まもなく現れた担任に没収されました。女子の冷たい視線から、自分たちがやってしまったことに気づきました。
 思い出したのは、『Facebook』という本(青志社)を読んで、女子学生の比較投票サイトづくりの話が出てきたからです。2003年、米国の大学2年だった19歳の主人公マーク・ザッカーバーグ氏の行為は、当然ながら学内で大問題になりましたが、その事件が、世界にいま4億人のユーザーがいるという交流サイト“Facebook”の原点になったと知りました。

                     ◇

 母校のハーバード大は誰もが知る名門ですが、歴代大統領らを輩出した8つのエリート結社的な社交組織から、スポーツなどの部まで伝統的かつ排他的な縦割りの人間関係があるそうで、どこに属するかで将来や異性関係の成功も約束される−という狭き門への競争と疎外への恐怖を侵入学生は強いられる状況が、本では描かれています。
 また、同書によればザッカーバーグ氏は、着想したそのサイト(“Facemash”)を立ち上げるため、これまた伝統的な学生寮ごとに分断された学生名鑑(写真付き名簿)を、可能なものは寮のサーバーに易々と侵入してダウンロードし、それができない寮には夜中に忍び込んで、見つけたパソコンから目的のデータを取り込んだ−とあります。要するに「ハッカー」行為ですね。
 そうして創った新サイトは、数人の友人に試してもらうつもりでリンクのメールを出したところ、次々と転送されて、2時間後には22000人の投票があり、本人がネットの怖さに驚いてサイトを閉鎖したそうです。(担任に没収され叱られた時代の話では、もはやありません)

 映画「THE SOCIAL NETWORK」(社交のネットワーク)の原作とされる同書は、ザッカーバーグ氏からインタビューを一切拒まれ、彼のブログや取り巻いた人々への取材などを基に書かれたとのこと。新サイト立ち上げ時の経過も、当時のブログに克明に語られている、と筆者(ベン・メスリック)は記し、その心境をこう代弁しています。
 「『大義』とは何か。それは『情報の自由』と呼ばれるものだろう。(中略)情報は共有されるためにある。画像は見られるためにある」(前掲書より引用)。エリカという女子学生にフラれたことが動機と映画は描いていましたが(ご当人は否定したとの話)、行動の核心には不自由で閉塞したキャンパスの現状を打破したい、という情熱と欲求があったのかもしれません。 
 そういえば、内部告発サイト“WikiLeaks”の創始者ジュリアン・アサンジ氏も、16歳ころからハッカー行為を始め、そのころの信条には「情報を共有する」があったといいます。(本ブログ『私選・2010年一番のニュース〜流出・告発とネット時代』参照
 創りあげたツールの外観は全く違いますが、その根っこに共通する精神があったらしいのは興味深く思われます。

                    ◇

 “Facebook”は、サイト上のそれぞれのページに日々のアルバムを設け、そこにコメントを投稿し合ったり、別の友人を誘ったり、そうした「友人」のリストに載せた中から共通の知人を見つけたり、新たな交流相手を探したりして楽しみ、交流を広げてゆく「社交のネットワーク(人脈)」づくりの場です。
 私もユーザーです。さかのぼると2008年11月が最初です。米国の友人から「こういう便利なサイトがあるから、キミもやってみろ」とメールで誘われ、写真での近況報告を始めました。以前、留学で7カ月を過ごした同国の大学の友人らとの接点づくりから、だんだんと「友人」は増えて、私の“Facebook”にも今、56人が登録されています。
 いちいち写真を個別、複数の相手にメールに添付する必要がなく、「友人」のネットワークで共有できるので、ちょっとした近況の変化もニュースとして知ることができます。“画像付きのTwitter”のように使ったり、実際に居合わせた現場の出来事を投稿したりする人もいます。とりわけ外国の取材現場などの写真をリアルタイムで紹介されれば、ニュースそのものになります。
 それらの機能を備えた「成長する社交の場」こそが、幾多の「出会い」のサイトとは違うザッカーバーグ氏の発明とされ、彼は世界最年少で億万長者番付の住人になったのでした。ハッカー的着想と行動から創られた大学内の自由な社交サイトが、わずか数年のうちにカネと欲、裏切りにまみれた巨大ビジネスと化してゆく経過を、、『Facebook』という本は面白く読ませます。

                     ◇

 世界中に4億人を超える利用者がいるという“Facebook”に、『We are all Khalad Said』という名前のページがあるのを知りました。Khalad Saidとは28歳の男性の名で、「我々はみなKhalad Saidだ」という意味。このサイトからこの2週間ほど、目を離せないでいます。

 エジプトの大都市アレキサンドリアの小柄なビジネスマンだったというKhalad Said氏は、街のネットカフェにいたところを突然、警察官たちに引きずれ出され、暴行を加えられ死亡しました。彼は、警察官たちが押収品のドラッグを横流しする様子をとらえたビデオ映像を、自身のブログから流し、その行為に対する報復だったとみられています。
 エジプトの警察の腐敗に対する市民の反感は強く、政府よりのマスメディアでなくネット上で告発する運動が広がっていたそうです。彼の死はネットで瞬く間に広まり、「われわれに対する脅しだ」と憤る声とともに、この事件をはじめ警察による市民虐待などをを告発する、『We are all Khalad Said』のページが立ち上がったそうです。
 
 独裁者を追い出した隣国チュニジアの市民革命を機に、『We are all Khalad Said』に集う怒りの声も、1981年以来続くムバラク大統領の政権そのものへ向けられ、「自由を取り戻せ」とのメッセージを発します。
 エジプト国内の批判的な人々を正規の法手続なしで逮捕し、 Khalad Said氏を拘束し暴行死させたものも、31年間もフェアで民主的な選挙がなかったのも、政権とともに続く「非常事態法」のためだったからです。
 、『We are all Khalad Said』には、アレキサンドリアや首都カイロなど、各地に広がったデモの生々しい映像や暴行された人の姿、運動に参加した人々の証言、連帯と決起を呼びかける投稿、海外の支援のデモの様子やメッセージなどがあふれ、さらに互いに離れた街にいる市民たちのリアルタイムの情報交換の場になっているようです。1つ1つの正誤を検証をする間もなく情報は流れ、事態は動いてゆきます。
そして、2月12日の早朝、絶大な権力から「ファラオ」と呼ばれたムバラク氏がついに辞任、というニュースが飛び込みました。

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 チュニジアの「ジャスミン革命」(国花にちなむ)は、同国の政権腐敗を伝えた米国の外交公電が“Wikileaks”で暴露され、それが引き金ともなって、やはり“Facebook”が大きな役割を果たしたと言われます。
 「情報の自由」を大義としたザッカーバーグ氏は、かつて大学の古い体制に風穴を開けた「社交のネットワーク」が、無数の叫びをエネルギーとする巨大台風のように進化を遂げた今を、どう見て、何を語るでしょうか。

 7〜8年前、私が米国に滞在した当時の「新しいメディアのチャンピオン」と言われたのは、韓国でインターネット新聞「Ohmynews」(オーマイ・ニュース)を創ったオ・ヨンホ氏でした。当時、多様な職種・地域から募った市民記者とプロが協働し、保守的なマス・メディアが書かないような政権批判のニュースを発信。世論を政権交代へと動かしました。
 06年、私が東京でインタビューの機会を得たヨンホ氏は、「ネットという自由な発信の場がある今も、なぜ、プロだけが記事を書き、大手メディアだけが情報を独占しているのか?」と問いました。おそらくその信条の根っこは、後進のザッカーバーグ氏にもながっているように思えます。

 ただ、“Facebook”を使ってエジプトから世界にリアルな「今」を伝えている人々は、もはや「市民記者」fではありません。時代は既にヨンホ氏の革命を追い越して、まさに誰もが発信する時になったのだ−という現実を受け止め、1つの政府をも打ち倒すほどの新たな情報メディアの革命の推移を、息をのんで見入るほかありません。
 遙かに離れた日本からでも、いますぐ、『We are all Khalad Said』にメッセージを送り、新聞の国際ニュースの現場に飛び込むことも可能なのです。さながら、ドラえもんの「どこでもドア」の1つの実現の形でしょうか。
 その先にどんな社会や政治のシステムが生まれるのか、あるいは情報を握り操る者が力を得る−という「情報の自由」の大義とは逆の世界になるのかは、まだ予想もつきません.。 


2011/02/06 15:00

被災・復興と地方紙記者〜栗駒耕英で聴く

 新幹線・くりこま高原駅から続く冬の田園風景は、やがて雪深い峡谷の道に変わり、大規模な山崩れの補修工事個所を何箇所も過ぎて、地吹雪の荒れる栗駒山(1627メートル)中腹の高原へ。私たちを乗せたマイクロバスは途中で、タイヤにチェーンを巻いて登りました。秋は紅葉の名所・いわかがみ平が終点のこの県道も、昨年9月17日に全面復旧したばかりです。

 4月から本紙記者になる若者たちの研修に同伴して先日、栗原市の耕英地区を訪ねました。この土地の名は、岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)にまつわるニュースで、誰もが耳にしたことでしょう。避難生活から戻って最初の冬を過ごす耕英の人々話を聴く機会を得ました。

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 標高約600メートル。宮城県丸森町耕野などから旧満州(中国東北部)開拓に渡り、敗戦で引き揚げた人々が1947年、原生林だった現地に入植したのが始まりです。
 イチゴと大根の高冷地栽培、イワナ養殖が主な生業だった耕英は、大地震による周辺の道路崩壊で孤立。住宅全半壊の被害も出て、41戸の住民の多くは昨年7月まで2年余り、ふもとの避難所・仮設住宅での生活を強いられました。
 それでも、「山に帰ろう」と合言葉として、大半の住民が離れ離れになることなく帰宅し、再出発。「開拓1世たち(現在は80代以上)の苦労思えば、われわれが結束して復興に挑まなければ。いろんな葛藤もあったが、その試練が耕英のコミュニティを強めてくれた」と、行政区長の金沢大樹さん(68)は語りました。
 耕英にあった工場の閉鎖、解雇などの苦難を経験した若い第3世代は今、イワナの寒風干しを新しい特産品にする事業に取り組み、豪雪の冬に客を呼ぶ交流できるイベントを探っています。若者の流出は耕英地区の悩みだったが、「震災は、古里で生きてゆこうという決意をさせてくれた」と斎藤仁志さん(30)=やまなみハウス企画開発部=。
 地元の人々は、こうした震災からの復興を「第2の開拓」と呼んでいます。

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 金沢さんは、被災・復興とメディアのかかわりも語ってくれました。  
 震災直後から、公営施設に置かれた避難所には、ワイドショーやスポーツ紙も含めてマスコミが殺到したそうです。疲れた住民がいきなりカメラを向けられたり、疲れて休む施設内に強引に上がり込まれたり、逃げる子どもが追いかけられたり、いろんなことが起きた。また住民の間でも、メディアへの露出や報じられた発言内容で波風が立つこともあったといいます。
 「行政区長という公平なまとめ役の立場から、不安のさなかにある住民を守る立場から、取材者には厳しいことを言わなきゃならなかった」
 「しかし、これから先の復興のことを考えると、マスコミの力も借りなきゃならない」

 金沢さんも、初めての経験で苦心腐心の日々だったそうだ。先の「山に戻るんだ」という決意の言葉は、避難所から7月に移った仮設住宅での住民の相談の場で、総意として生まれました。
  「誰が復興するのか? われわれ被災者が自ら主体となって進んで初めて、周りの人々も応援してくれる。そこがあいまいな『人頼み』では、復興なんてできない」と、当時の議論を振り返ってくれました。
 「それからのことを考えると、メディアの助けは必要だった。当初、殺到したマスコミは姿を消していったが」。そんな気持ちで、金沢さんは、震災発生以来、欠かさず通っていた河北新報の地元記者に声を掛けた、と語りました。

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  翌日、栗駒山の真っ白な山頂が朝日に浮かんだ耕英地区を後にし、記者の卵の若者たちと一緒に、ふもとの若柳支局(栗原市)を訪ねました。
 震災発生時、支局の記者は赴任から2カ月目だったという。”メディアスクラム”状況になった避難所取材の初期、当の記者は「自分はこの先3〜4年はいるだろう。住民を長い目で見守る立場にたとう」と自覚し、難しい距離感を保ちながら行動したそうです。それを、金沢さんも冷静な目で見ていました。
 予期せず声を掛けられたのは、避難所から仮設住宅に移った、被災後1カ月のころだった。「君はここにいるんだね。頼りにしています」
 
 耕英に通じる仮設道路ができたのは同年8月。以来、記者はこれまで「80回は通ってきた」と言う。「耕英の人たちが大好きになった。正直、住むのは厳しいところ。新潟の中越地震では、集団移転した被災集落もあったそうだ。どんなに苦しくても、彼らはそんなことを考えなかった。プライドのある人々だ」
 前日、話を聞かせてもらった耕英の人たちに高倉吉雄さん(53)がいた。勤め先の被災で職を失った元料理長。ふもとの栗原市内外では賃金が安く、仙台に新天地を求める選択もあったのに、「残って復興を助けたい」ときっぱり取材に語ったという。今は、後輩の斎藤さんらと新事業の成功を目指している。
 「取材を受けて新聞に出ることで、自分たちを追い込んで、それを励みにしている」と、高倉さん、斎藤さんは語ってくれました。

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  若柳支局や地元のもう1つの栗原支局、それに応援の報道部記者らも書き継いできた記事に、社会面の随時連載「歩む 前へ」があります(これまで34回)。筆者もファンで、楽しみにしてきました。
 養魚業、介護支援員、郵便局長、温泉宿経営、養護教諭、高校生、畜産農家…。震災とは、地域のあらゆる人と家族、仕事、暮らしを巻き込み、人々はその体験を共有しながら、それぞれの現場から、できるやり方で前へ進んでいる。その一歩一歩が復興への歩みであり、その主体とは一個一個の住民−。
 事実と思いを淡々つづる物語の数々が、そんな主張と取材者たちの共感を伝えてくれます。金沢さんも登場した、このシリーズを私は楽しみに読んできました。
 「いろんな人に話を聴きながら、首長より政治家より重い言葉を聞くし、一人一人が主人公という思いがある。それが、われわれのニュースなのだ、と知りました。震災で耕英の人々と出会い、私の人生も変わりました」
 そこにとどまり、当事者と同じ時間を生きる。それが、地方紙記者の仕事の本質です。 いずれ記者となって地域に飛び立つ若者たちも、感じてくれたでしょうか。


栗駒山おろしで積雪も凍る耕英地区の冬



「震災体験の語り部活動をしたい」と話す金沢大樹さん

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