「言葉にできたら~K.ODAへの思い込み旅」と、ちょっと大げさな題の一文を書いたのが、2015年の1月12日でした。大学2年の時に出合ったオフコース、そして解散後の小田和正さんのアルバムをもう一度聴き通してみよう、という極私的な心の旅を思い立ったのです。が、「一年の計は元旦にあるも三日坊主に終わる」というセオリー通りに2年半近くが過ぎてしまいました。「Cafe.Vita」というブログを再開するに当たり、まずはこの幻のプロジェクトから始めようと考えました。ファンの方はたくさんいらっしゃるのを承知で、「極私的」という但し書きにてお許しいただけたらと願います。
 
 それで、「小田日和」です。発売されたのは14年7月(ソロになって9枚目のオリジナルアルバム)でしたが、実際に私が買って聴いたのは昨年です。「そうかな 相対性の彼方」(05年6月)までは、村上春樹の小説と同様、アルバムが出るたびにフォローしていたのですが、11年3月11日の東北の大震災と福島第1原発事故が起きて以後、そんな余裕はなくなりました。村上春樹の小説も、読めなくなった、というか、読む気持ちが起きなくなりました。私は記者を仕事にしていますが、被災地の現実を目の当たりにし、当事者たちの苦難に触れる毎日の中で、その一つ一つの「事実」の前にフィクションの意味が分からなくなり、癒しにならず、受け付けなくなりました。その当時、多くの作家や音楽家が大震災と向き合った創作に取り組み、盛んに発表してきました。仕事で仙台にて見聞する機会もありましたが、どうしても自己満足臭のある「外側」の遠くの出来事という以上の感想はありませんでした。

 震災直後の
「どーも」の発売(11年4月)もずっと知らないまま、「小田日和」を手にしたのは14年の秋ではなかったか、それも偶然、Amazonで見つけたと記憶しています。そういうのって、無意識でも、心が求めている時なんですよね。聴いた最初の感想は「びっくりした」でした。心にじかに入ってくる小田さんの歌に、自分だけが知らぬ間に流れていた時の変化を感じて、何度も聴き入っていました。そして、「どーも」も買い求め、ブログでの「言葉にできたら~K.ODAへの思い込み旅」なる極私的試みを思い立った、という経過です(恥ずかしながら「言葉にできない」をもじった題です・・)。なぜ、びっくりしたのでしょうか。そこから始めてみます。(続く)

 
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