Cafe Vita

 このブログは、仙台在住のジャーナリスト、寺島英弥が2009年から職場で暮らしや文化、日々の出来事をテーマに書いており、11年3月の東日本大震災で中断したままになっていました(以後のブログは『余震の中で新聞を作る』をご覧ください)それから6年ぶりに、もはや職場とは関係なく、また書き出そうと思います。

2010/12/09 14:10

イマジン忌

 あまりに突然、どこかへいなくなるように亡くなった人は、いつかまた逢えるのではないか、という見果てぬ夢を残してゆきます。こちらの心はいつまでも、喪失の事実に追いつけないまま。

 「J.F.ケネディが暗殺された時、何をしてた?」「ジョン・コルトレーンが死んだ時、どこにいた?」
 それぞれの世代で、アイコン(偶像)の死というのは、その衝撃故に、人生のマイルストーンになるようです。
 私は現在53歳ですが、ジョン・レノン殺害事件のニュースは、いまも信じがたく、胸に燃え残っています。そんな方が多いのではないでしょうか。
 射殺犯の男も早ければ2年後にも釈放との話ですが、なぜジョンが死なねばならなかったのか、いまだに謎は解かれていません

 1980年12月8日のあの日から、昨日がちょうど30年でした。早いものです。
 その数年前でしたか、ヨーコと一時離れて暮らしていたジョンが、和解した際のこんな言葉を確か、夏休みの実家のラジオで聴きました。
 「僕たちの別居は完全に失敗した」。なんてすてきなコメントなんだろう、と思ったものです。

 ジョンの居宅があり、事件の現場でもあったニューヨークのダコタ・アパート。そこに隣接するセントラルパークの記念広場。命日には毎年、事件直後と同様に大勢の人が集い、夜を徹して彼の歌を合唱します。昨日もそんな映像がテレビに流れました。

 日本でも、奥田民生さんらが「愛と平和」の精神を引き継ぐチャリティーコンサートを催し、12000人が声を合わせた−というニュースがきょうの朝刊に載りました。こちら流にいえば、「イマジン忌」とでもなるのでしょう。

 「ストロベリーフィールズ」と名付けられたセントラルパークの円形記念広場は、「IMAGINE」のメッセージを刻み、世界中からファンが訪れる聖地となっていました。
 7年前の冬に訪ねた折の写真ですが、30年という「かくも長きの不在」の歳月を思いながら、紹介してみます。


「ストロベリーフィールズ」


「ダコタ・ハウス」

2010/12/08 13:30

記者にブログを勧めるワケ

  「『ジャーナリズム』って言われて、分かる人って、どれだけいるのでしょう? マス・メディアの業界が好んでその言葉を使うたび、そうでない人たちは高いバリアーを張られたようで、引いてしまいますよ」
  昨年8月下旬、「地域メディアを再構築しよう!」と題して鳥取県米子市で開かれた合宿セミナーで、こんな発言が相次ぎました。会場に集ったのは、地元のケーブルテレビ局、インターネット・メディア、地域SNSサイト運営組織の関係者、地域おこしやNPOの活動のメンバー、メディアを学ぶ大学生ら約50人。私のようなマス・メディアの人間は数人でした。

  「ジャーナリズム」の言葉の元である英語のJournalは、もともと「日々のことをつづる」「日記」といったシンプルな意味です。
  例えば私は以前、米国人から”Keep journal!”(毎日、書き続けなさい)と声を掛けられたことがあります。Journalは日々の出来事を報じる新聞の意味にも転じ、Journalist(記者)、Journalism(日々の報道)も派生しました。
  「ジャーナリズム」は本来、「権力」に対置される市民社会の武器です。ですが、日本ではいつしか、一握りの企業記者が属するマス・メディアの内側でしか通じない、自己満足的な「業界用語」になっているのではないか—というのが、問題提起の意味でした。

  インターネット空間の扉を開けて誰もが発信でき、それぞれが暮らす場所から「マイ・メディア」を創っています。ここ「ふらっと」でブログを書く仲間のみなさんもそうでしょう。米子合宿セミナーの参加者の顔ぶれは、現在のじつに多様なメディア状況の縮図であり、そこでのマス・メディアの存在は少数派。参加者たちの言葉がそれを象徴しました。
  「地域で発信している人は誰も、『ジャーナリズムをやっている』なんて言っていません」、「みんなで、いい地域をつくりたい、そのための問題解決をしたい、そこで生きる誇りを取り戻したい。それだけなんです」

                      ◇

  私がブログを書き始めたのも昨年8月でした。そう思い立ったのは、いくつか理由がありました。
  いつの間にか「城」や「鎧」のようにもなった「マス」の中に籠もっていたのでは、それぞれに発信し、集いの場をつくる人たちと遠く離れてしまう。それには、新聞の記者たちもまた「個」でつながれる発信者に戻れなくては—という思いです。
  以前、私は「読者が新聞を離れたのではない。新聞が読者を離れたのだ」という言葉を米国の地方紙編集者から聞きました。前に本ブログでも紹介しましたが、その現実の一端を米子市のセミナーでも確かめられました。

  この“Cafe Vita”を、私は肩書き、実名を出して書いています。始めて1年4カ月がたちますが、その拙い経験から知ったのは、ブログの発信は当然ながら一方通行の配達でなく、来訪者のレスポンスからさらに考えるきっかけやヒントをもらい、「対話」として一緒に創り上げてゆくもの—という発見です。
  そして、昔ながらのマス・メディアの“One size fits for all”(一つで万人向け)の発信でなく、“Interactive”(双方向で作用するもの)につながれるこのインターネット・メディアを記者たちが体験し学ぶことから、新聞も変わってゆくだろうという実感です。
  自ら発信したものへの責任の重さ(間違えば炎上のリスクを含めて)はもちろん、つまらないものは読まれないという当然の評価、「誰に向かって書いているのか?」という最も大切な実感も、併せて学ぶことができるのですから。

  ただ、そこにも制約はあります。ブログを始めるに当たって、私が在籍する編集局の上司と確認したのは、「ブログに書くことは、そのまま新聞にも書ける」ことを基準にしようという約束事でした。
  ブログに書く行為に、米国の記者やブロガーは“Publish”(出版する/発表する)という言葉を使います。誰にでも開かれたメディアに「プロ」が書くことは、本や新聞の出版、発行とも同じ行為であって、どんな批判もありうる、しかも肩書きを背負っての責任が伴う、常に公的な発表の場だからです。
  しかし、人をつなぐ力とは、オリジナルの「生きた言葉」にこそ宿ります。無味乾燥ではブログ面白さもありません。そこの両立に難しさがあります。
  それゆえに、「ブログを書いてみるべきだよ」と記者たちに勧めています。新聞とネットの境を超え、つなぐ、新しい表現や可能性へのチャレンジでもあるからです。

                       ◇

  人と人は、互いに「わからない」他者として出会うところから出発し、さまざまな溝や壁、誤解、すれ違い、そしてその都度、対話を重ねることでようやく、「わかる」存在へと近づくものでしょう。まして、書かれたものだけを通して思いや意見を伝えるのは、一番難しいことかと思います。しかし、厳しいですが、プロである以上は当然、そこに書かれたものでしか評価はもらえません。
  それゆえ、書き手が自らに批判的な視点を持ち、初めて接する人も含めた多様な読み手に分かりやすく伝える術(本ブログ『リテラシーって何?〜五橋養筆堂から』をご覧ください)を、われわれ記者が真っ先に学ばねばなりません。

  「何をどんな風に表現しているのか、それを読み解く眼は経験的に学ぶしかありません。そのためにも自分で表現・発信してみることが大切です」。現在のメディア社会で生きるためのリテラシー教育に取り組む東北大大学院教授の関本英太郎さんが、同上『リテラシーって何?』のコメントで、こう語っています。
 書いたものが読み手にどう受け止められたか、を常に検証し、さらにどう答えるか、という対話を重ねる経験から初めて、それは身につくものでしょう。

  「書く」作業をしている人は、同時にその文章を「読む」作業を頭で行っています。「あれれ、おかしい」と自分で首をひねったり、言葉選びに悩んだり、文を書き直したり、気に入らず原稿をくちゃくちゃにする行為が、まさにそれ。
  「自分で書いておいて、自分に伝わらないじゃないか!」という「もう一人の自分」こそが、内なるリテラシー番人の働きだといえます。その番人をパートナーと認めて頭に住まわせ、点の辛い相談相手に育てて、つきあってゆく。そんな経験の積み重ねです。

  河北新報には毎日、社説や「声の交差点」のある第5面に、「デスク日誌」というコーナーが載っています。編集局と東北各地の総局のデスクたちが交代で、日々の職場や取材、休日などの出来事や思いをつづったコラムです。
  「主語」のない客観スタイルの記事が大多数の新聞で、「記者という人たちの素顔が見える文章」「愛読しています」というポジティブな感想を、しばしば読者から聞きました。
  「絶対にしてはいけないミスをしないようになるには、まず、自分がしてみることだ」—。これはサッカーの世界で、スペインの名門レアル・マドリーを率いるジョゼ・モウリーニュ監督の言葉であったかと記憶しています。
  そんな、酸いも辛いも多々ある経験を積んだベテランたちが、肩の力を抜いて自分の素直な言葉をつづるからこそ、読み手につながれる文章になるのでしょう。
  彼らにも、ぜひブログを書いてほしいなぁ、と願っているのですが。

2010/11/23 22:25

「極限からの生還」を伝える〜野田幾子さんの仕事

 「お父さんは、再びこの世に生まれてきた。私たち家族も、生まれ変わった」
 チリの鉱山落盤事故で地底900�の暗黒に閉じ込められ、69日間の極限状態から救出された人々の喜びのコメントで、私が聴いた最も印象深い言葉でした(10月13日のCNN)。
 作業員の1人、フランキー・ロボスさん(53)が奇跡の生還を果たすまでの時間に起きたものを、17歳の娘さんがこう表現しました。

 元サッカー選手のロボスさん自身も「私の人生で最も長く過酷なゲームだった」と語りましたが、つい最近になって、事故発生から「生存確認」までの間の模様を伝える証言が、初めてメディアに流れました。
 『空腹のあまり「餓死するために、なぜ生きているのか」とこぼす人々が出てきた。仲間同士のけんかはなかったが、体の衰弱が進み誰もが坑道に身を横たえた。最後の数日間は「立ち上がることもできず、錯乱状態でうわ言を言い、恐怖のあまり叫ぶ人々もいた。(自殺を防ぐために/寺島補足)必ず誰かが横に付いていた」という。』(11月15日付河北新報の国際面から)

 救出された33人は、本を出して収益を分かち合うため、今も詳しい状況を語ってはいないそうです。
 極限とは、体験し生還した人間にしか語れないもの。遠くの人々が日常に想像もできない世界や出来事を、他者が伝えようとすることほどチャレンジングな行為はありません。自らもそこに飛び込み、時には引き返すことのできない、奥底の世界をのぞくほかないのです。

                         ◇

 映画「グラン・ブルー」はご覧になりましたか。フリーダイビング(素潜り)で人間の潜水能力の極限に挑む男たちを描いた海の映画です。
 残念ながら、私自身は浜育ちなのに泳げません。中学1年の夏におぼれかけ、いまだに海が怖いのです。その「死の深遠」にあえて身を沈めようとする人々の狂おしい情熱が、永遠の謎のように思われたものです。

 今年9月20日号の雑誌「Number」に、「日本女子、沖縄で世界を極める」という記事が載りました。真っ青な海中映像のグラビアが4ページ見開きで、この夏、沖縄で開かれた「フリーダイビング世界選手権」を伝えるルポ。世界12カ国のトップ・フリーダイバーたちが参加し、総合で初優勝した日本女子チームのドラマを伝えていました。

 フリーダイビングには、フィン(水かき)を着けて素潜りできる深さを競う(コンスタント・ウィズ・フィン)ほか、プールでどれだけ長く息を止められるか(スタティック)、潜ったまま水平に泳ぐ(ダイナミック・ウィズ・フィン)—の3種目があるそうです。
 世界の記録って、どのくらいだと思いますか? 私はびっくりしました。記事によると、男子で水深116メートル(ウィル・トゥルブリッジ/ニュージーランド)、女子も水深100メートルを超えます(ナタリア・モルチャノヴァ/ロシア)。肺にひとつ、ぐっと深呼吸した空気だけで…ですよ。
 地中海が舞台の「グラン・ブルー」のように、欧州では半世紀以上も前から大会が続いている人気の競技だそうですが、日本で始まったのは1998年。初めて国内に招致した大会での快挙だったのでした。

 新鮮な驚きに満ちた記事でとりわけ印象深いのは、女子チームの1人、平井美鈴さんの物語。30歳になった2003年、「イルカと泳ぎたい」と訪ねた小笠原でフリーダイビングを初めて見て、やってみようと思い立ち、じつはカナヅチだった自分をそれから変えたといいます。父親の会社でデザイナーの仕事をし、家庭も営みながら、4年前に水深61�の日本記録(当時)を出すなど第一人者となった「努力と熱中の人」。沖縄では74�に記録を更新しました。

 平井さんは、あの地下鉄サリン事件(1995年)の体験者でもあり、乗り合わせた車両が違ったことで最悪の難を逃れました。「それまでは当たり前のように�明日�が来ると思っていました。でもその日、電車でどうしようもなく気分が悪くなって。同じ電車に乗った人がホームや道路で倒れるのを目の当たりにして、とてつもなく怖くなった」(本文からコメントを引用)。
 彼女もまた、「極限の状況からの生還者」でした。死と生の境をさまよった体験が、「今やれることはすべてやっておきたい」思いに変わったと筆者はつづっています。

 なにゆえ、海の底への潜行にあえて挑むのか? 「死の深遠」との境の闇に生身を限界までさらす行為にも、もしかして�明日�よりも重い「生」の確認があるのかもしれません。そのたびに「再び、生まれてくる」ような実感が—。 記録を伸ばすたびに涙を流し、外国人選手らから「Crying Queen」(泣きの女王)と呼ばれるようになったそうです。

                   ◇ 
    
 この記事の執筆者は、野田幾子さん。ネットを中心に、ITの世界や企業経営者らの多彩なインタビュー、そしてビールの世界を探求する記事などで知られるライター/エディターです。
 じつは、本ブログで以前に紹介した「スイッチオン・プロジェクト」という大学生たちとの活動が縁になった友人で、昨年、模擬インタビューのモデル役を一緒に務める機会があり、山形の東根市出身であることも知りました。

 その折、「どうして、もの書きの仕事を選んだか?」について、とても面白いお話を語ってくれました。それによれば、お寺に育って、接客と裏方仕事が日常だったためか、高校を卒業すると�接客サービス�つながりでホテルに就職。4年働いて、「本や雑誌が好きだから、編集の道に進みたい」と思い立ち、好きなMacの腕を生かしてIT雑誌に勤めた後、フリーランスとしてライター/エディターの夢をかなえたそうです。
 
 新たなテーマとなったフリーダイビングと出合ってから1年余り。スキューバを習った先生から、「面白い人がいるよ」と平井さんを紹介されたそうです。それから、神奈川・真鶴や房総、中米バハマ、そして沖縄の海に、平井さんをはじめ日本のフリーダイバーたちが挑戦する姿を追ってきました。
 おそらくは野田さん自身も「なぜ?」を問う取材の旅を、野田さんは「apnea report」に、克明に記録し続けています。
  
 読んで初めて知るのは、より過酷な条件の記録を1メートルでも深めようと、胸にためたわずかな空気やゴーグルの使い方にも工夫を試みたり、新たな装具を考案したり、捨て去って水の抵抗を減らしたり、小さな成功と失敗を繰り返しながら、あらゆる可能性を1人1人が絶えず探し求めていること。
 100メートル潜ったとしても、空気を使い果たしてはそのまま水底です。さらにまた、急激な水圧変化による潜水病の危険を避け、生還しなければならないから。競技の途中でパニックを起こしたり、気絶する人もいるといいます(もちろん、競技ではサポートがありますが)。

 中でも「耳の水抜き」。何のことかと思って野田さん本人に聞きましたら、高所などの気圧変化で耳がキーンとなった時、それを解消するのと同様のことでした。潜るほどに「サッカーボールも押しつぶす」まで強まる水圧から鼓膜を守るため、すなわち肉体と命を守るため、必須の技なのだそうです。そのやり方もまた1人1人違い、自然にできる人も苦手な人もおり、そこに記録も、フリーダイバーとしての適否もかかっているといいます。
 (野田さん自身、取材する人々が体感するものに少しでも近づきたい、とフリーダイビングにも挑戦していますが、『耳抜きがうまくゆかず、まだメートルも潜れません』)

                      ◇

 野田さんは「NumberWeb」にも「10年越しに叶えた夢」と題し、平井さんとともに日本のフリーダイビングの歴史を拓いてきた篠宮龍三さんを紹介しています。「日本で世界選手権を。そして、世界一の選手を輩出したい」という夢を沖縄で実現させた男の物語です。

 競い合うフリーダイバーたちの心理戦、焦りや悔しさ、読みや計算を超えたハプニング、狙い通りには決してゆかない自然相手の奥深さ、それにもめげず潜り続ける人間への驚嘆と賛辞—。
  まだまだ知る人の少ないフリーダイビングの面白さを伝えたいと願い、沖縄での成功(日本の男子チームも銀メダル)をわがことと喜び、共に時間を過ごしてきた人にしか語れない息遣いとスリルと共感が、野田さんの文章に満ちています。

 その魅力のもう1つは、「グラン・ブルー」に通じる映像の数々。極限の淵に身を投じ、生還する人間たちのなんと美しいことでしょう。野田さんは、それも大自然と1つになる営みだから、と書いています。

 「水中に深く深く潜っていくという非・日常、フリーダイビングという競技も、ほかの人にとってはありふれた日常の、ありふれた時間と同時進行で行われているのだ。崖の上から水面を眺めたときにふと、そんな「当たり前」にいまさらながら気がついた。ブルーホール(注・バハマ)も、海を通じてどこかにつながっている。フリーダイビングも、その海の中で行われている、人の、自然の営みのひとつでしかない」 (『apnea report』より)


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