Cafe Vita

 このブログは、仙台在住のジャーナリスト、寺島英弥が2009年から職場で暮らしや文化、日々の出来事をテーマに書いており、11年3月の東日本大震災で中断したままになっていました(以後のブログは『余震の中で新聞を作る』をご覧ください)それから6年ぶりに、もはや職場とは関係なく、また書き出そうと思います。

2011/01/10 18:30

101人に聞いた、「わたしの1冊」

  いろんな本が日々生まれ、新聞社にもたくさんの新刊が届きます。有名無名さまざまな作家の小説、こつこつと書きためられた自費出版本、素人には読みきれぬ学術書、「いま話題の〜」と帯が付く新書類やノウハウ本、企業のPR本、健康や料理、ビジネスにタレントの本…。

  ある本は書評担当から選ばれ、ある本は記者の目に留まって取材のタネになり、選から漏れた本たちは机に積まれ、棚に眠りー。活字離れ、出版不況のさ中といいながら、世に出る本は増えており、2009年の新刊点数は78,555部(前年比 2.99%)と、20年前の2倍でした(出版指標年報より)。むろんベストセラーなど一握りで、多くは忘れ去られ、また新たな本が生まれてくる。
  そんな一冊一冊の本との「人生の出合い」となると、これはもう奇跡的な出来事にも思えてきます。

                                 ◇

  「仙台 本のはなし 24人でつくりました」という題の新刊書(写真)が新年早々、私の机に届きました。
  仙台文学館が09年秋に「本を作ってみよう」というワークショップを催し、24人の市民有志(相馬市、福島市からも2人)が1年がかりで手作りした本だそうです。
 
 「街へ出よう 本を探しに」の見出しで、書店やブックカフェ、古本や絵本の店などの主人らが、本探しの散歩の楽しみを伝授したり、共に仙台在住の俵万智さん×伊坂幸太郎さんの対談や、「樅の木は残った」(山本周五郎)など小説を通した仙台歴史考があったり。「オリジナルのこんな本を作って、読んでみたい」という本好きの人たちの熱が伝わってきます。
 
  なかでも、これぞ手作りの『本のはなし』という労作が、『101人 わたしの1冊』という企画です。
  参加者たちの最初のディスカッションで、「わたしたちとって、そもそも本ってどんな存在? 100人にインタビューしてみよう」という案が出され、6人の賛同者が集ったとのこと。
  さらに、「100人では自己完結しちゃう。無限の伸びしろを意味する『1』を加えて、101人にしよう」との話になった−と、まとめ役になった関口怜子さん(子どものアートスタジオ・BE−I主宰)に伺いました。

  それによると、まず担当の仲間6人で101人をリストアップ(それぞれの知ってる人、面白そうな人、聴いてみたい人)することから作業が始まり、昨年5月から3カ月を掛け、2人ペアになってインタビューに東奔西走。 連絡先を調べ、アポイントを取ることだけでも大仕事なのに、話を聴いて、その上に文章をまとめる作業もありました。正確な題名や出版データの確認も含めて。
  「大変は大変だったけど、取材の面白さに味を占めちゃったの」と関口さん。
  「わたしの1冊」を聴くことは、とりもなおさず、「いま、ここでこう生きている」ことの始まりや転機、その時代や境遇、悩みを聴くことであり、101人分の人生の時間を追体験する旅のようなものだった、といいます。
  「聴いただけでは足りなくて、図書館に行ったり、取り寄せたりして、それらの本をできる限り読んでみました。自分たちも知らなきゃ、書けませんから」。メンバーたちはまさしく、「1冊の本」の海に飛び込んだのでした。(以下、文中コメントの引用は同掲書から)


                               ◇

  「主人公の少年と自分の境遇に似たところがあると思い込んで、すっかりはまり込んでしまったのです。自分の人生と重ねあわせ、この小説通りに生きてゆこうさえ思いました」
  昨年4月に亡くなった劇作家井上ひさしさん(元仙台文学館長)の「わたしの1冊」からの引用。チャールズ・ディッケンズの『デイヴィット・コパーフィールド』(中野好夫訳・新潮社)を高校3年の夏休みに読んだそうです。
  井上さんは当時、生活苦のため母親から預けられた仙台の先のラ・サール・ホーム(孤児の養護施設)の庭で、やはり孤児院生活から苦労して作家になった英国の大文豪に思いをはせ、「涙と勇気と希望が1度にあふれ出しました」と語りました。

  1冊の本との出合いが、人生の羅針盤を回す。そうした体験が、詩人の武田こうじさんにもありました。
  アルチュール・ランボーの『感覚』という詩を読んで、「どこか違うところに連れて行かれたような不思議な気持ち」になり、「これだ! ぼくは生きている! この詩の中にずっといたい!」と、自分も詩人になろうと思ったそうです。
  この詩はランボーが15歳で書いて、詩人になる予感に満ちているといわれ、時を超えたメッセージとして武田さんに響いたのかもしれません(『ランボー詩集』・清岡卓行訳/河出書房新社)。

  ジューリーデザイナーの種澤節鴻(せつこ)さんは『小公女』(バーネット・水島あやの訳/講談社)を、旧満州(中国東北部)にいた5歳のころ、塀をはしごで越えて、隣家のお姉さんに毎日読んでもらいました。
  「赤いプリンセスラインのオーバーコートを着て黒い編み上げの靴をはいた」主人公ら、夢のような世界をビジュアルに思い描いていたそうです。  「その感覚がきっと、いまのお仕事までつながっているのね」とは、インタビューした関口さんの感想です。

  「ニルスがガチョウに乗ってヨーロッパを見下ろすあのわくわくした思いが忘れられません」と、『ニルスの冒険』(セルマラーゲレーフ/学習研究社)を挙げたのは、農家レストランを宮城県加美町で営む渋谷文枝さん。
  「ニルスの国に行ってみたい」という夢が、その後の人生で外国への憧れとなり、懸賞論文でドイツの農村生活を視察するチャンスをつかみ、ふるさとでの農家レストラン実現に広がったといいます。 

                             ◇

  「ただ何げなく聴いていた、読んでいたものの意味が、何十年かして、ふっと別な何かとつながって、このことだったのかな、と降ってくることがありますね。初めてリアリティを帯びるように。
  だから、若き日の歌も本も、その人と一緒に生きていて、意味を知る鍵が見つけられる時を待っている、なんて言えるのかもしれませんね」 
  これは、本ブログの『「秋の気配」を思い出せば…吟遊詩人と恋』のコメントに記した一文です。『わたしの1冊』は、その感慨を深めさせてくれました。
  本を読むという行為は、種まきをするようなもので、それからの日々の実体験が「耕し」に当たり、やがて恵みの「雨」がやって来て、その人の人生に種が芽吹く。その芽吹きが、いつしか人を豊かな「智恵の森」にする−。

  小学校教諭の高地則子さんは10歳の時に『王子と乞食』(マーク・トウェイン/集英社、角川書店)を通して、「立場を変えるとモノゴトの考え方や見え方が違ってくる」ことを発見し、大人になっても繰り返し読んできたそうです。
  丹野六右衛門さん(お茶丹六園園主)は小学5年生で『泣いた赤鬼』(浜田廣介/講談社)を読んで、「自己犠牲なんて(中略)自分に出来るんだろうか、なぜ真実を村人に話さなかったのか」と悩み、どう解決するかは自分なりの考え方をしていいんだ、と学んだといいます。

  101人の中に、ノンフィクション作家柳田邦男さんの顔がありました。企画メンバーの1人が以前、柳田さんの仙台での講演を聞いて、ぜひ、とお願いしたら、快く引き受けてくれたとのことです。
  柳田さんが挙げたのは、子ども時代に小遣いで買ったという『フランダースの犬』(ウィーダ 森山京・文/小学館)でした。ちょっと意外でしたが、読んで納得できました。

  他界した父親に重ね合わせてネルロ少年に共感し、泣きながら読んだ−とあった後、「息子が亡くなったあとに、また読み返したら『ああ、神様、これで十分でございます』っていうネルロの言葉に出会いました」との一節が。 柳田さんが『犠牲(サクリファイス)—わが息子・脳死の11日』 (文春文庫)につづった次男の自死という出来事の後日談でした。
   「自分の人生も、死をも全面的に受け入れている言葉だったんですね。ネルロも息子も、納得して死を迎えたんだって、本が教えてくれました」。 これを読んだ私も、胸を衝かれたような思いになりました。

                               ◇

   「101人 わたしの1冊」には、じつは私の1冊も入っています。『百万回の永訣−がん再発日記』(中央公論新社)です。
  著者のノンフィクション作家柳原和子さん(故人)のことは、本ブログ『「ナラティブ」を聴く 〜がん医療の現場からの声』で紹介しました。知っていただきたく、どうぞお立ち寄りください。
  「当事者と他者」をめぐる問題に悩んでいた06年夏、この本を読んで砲弾を浴びたような衝撃を受け、いても立ってもいられず、百日紅が咲く猛暑の京都に著者を訪ねたのでした。

  そうしたら「わたしの1冊」で、仙台市生涯学習課の白井浩さんが「小学6年で先生になることを決意させてくれた本」と、『師弟物語〜矢と歌』(太田俊雄/聖燈社)を紹介。 世界に開かれた教育の実践者として日本キリスト教団の敬和学園高校初代校長になった著者を、新潟に訪ねたというお話を語っていました。
  同じような体験をした人がいることが嬉しくなったのとともに、本もまた「人と人をつなぐメディア」であると、あらためて認識しました。

  さて、「あなたの1冊」は、何でしょう?  




『仙台 本のはなし 24人でつくりました』(仙台文学館刊)



『101人 わたしの1冊』と、6人の企画メンバー(左頁)

2010/12/30 19:15

私選・2010年一番のニュース〜流出・告発とWikileaks

 2010年の私の変化といえば、4月からラジオのニュース解説の仕事が回ってきたことでした。TBCラジオの「Goodモーニング」という朝の情報番組で隔週金曜日のAM7:30から、わずか10数分の出番ですが、前日夕からネタにするニュース3本を探して仕込み、3分間ほどのコラムを考えると、翌朝の5:30にはタクシーが迎えに来てくれます(眠い…暗い…寒い…)。

  参院選大敗や普天間、小沢氏の問題を含む民主党迷走、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件とえん罪の土壌露呈(本ブログ『自白の心理学』参照)、円高不況(一段落しましたが)、チリ鉱山落盤事故と奇跡の生還、iPad登場、サッカーWC南ア大会など、さまざまな出来事を取り上げてきました。
  中でも私的に「今年一番のニュース」と考えるのは、中国漁船衝突事件の後のビデオ映像流出事件、そして現在も世界を駆揺るがせる告発投稿サイト”WikiLeaks”(ウィキリークス)の衝撃です。この2つのニュース、根っこがつながっていると考えるのです。

                    ◇

  海上保安官による映像流出事件は、「国民に事実を知らせたかった」と自ら名乗り出た、いわば内部告発といえましょう。
  中国政府との関係を慮る首相官邸側が怒り、「重大な機密漏洩。厳罰に処すべき」という”個人の犯罪”の構図づくりをしました。が、その後の調べで、共有の一時保存ファイルから海保内部の誰でも見られるような管理であったことが分かり、保安官を書類送検した検察も「これが機密か?」と疑問を呈し、起訴猶予の公算大ーとの報道が先日ありました。

  私が関心を持ったのは、むしろ「機密とは何なのか?」という謎です。誰が、どんな理由や基準で「機密」の線引きをするのか。時の政府の都合の善し悪しで、「機密」とされたり、リークされたりしているのではないのか−。 中国漁船の事件現場の映像をテレビやネットで目にした多くの人の感想ではないかな、と感じましたし、情報を批判的に読み解こうという「リテラシー」の遡上にも載る問題と思いました(同『リテラシーって何?~五橋養筆堂から』参照)
  要は、その判断が、私たちのあずかり知らぬところ(英語だと”behind closed door”)でごく一部の人々によって決められ、そのまま歴史の闇にも埋もれさせられてしまうものということでしょう。

  1972年の沖縄返還の折、本来米国が負担すべき6500万ドルもの巨費を、日本政府が相手のいいなりになって国会、国民に秘密のまま肩代わりしていた「密約」が、今月22日に開示された外交文書で明らかにされました。その後の米軍基地への「思いやり予算」につながる極秘事項で、歴代の内閣、外務省も存在を認めてこなかったものでした。
  元毎日新聞記者の西山太吉さんが同年、当時の外務省女性職員による事実暴露に関わった「西山事件」も、400万ドルの肩代わりの「密約」についてでした。しかし、事件はスキャンダルに矮小化され、2人も有罪とされ、密約の存在も否定されました。その後、外務省への情報開示を求める訴訟が起こされ、最高裁から同省への開示命令が出されたのが今年5月。さながら地下に潜った水が、地表にわき出すのに38年を要したのです。

  「機密」は「国益ゆえ」と為政者は語りますが、では国益とは何なのか? そのために何をなぜ秘さねばならなかったのか?−が、きちんと説明された験しはないと思われます。
  国益とは、国民すべてに共有される有形無形の財(しかも税金の使途にもかかわる)であるとすれば、政府の判断や選択(地方自治体も同様)は、私たちの側からチェックされ、検証されねばならないと考えます。
  「知らしめず、依らしむべし」は数千年変わらぬ為政者の本性であったから、「主権は国民、市民にあり」というデモクラシーを健全に機能させるために「知る権利」は生じ、その監視役(英語で“Watch dog”/デモクラシーの番犬)としてのマス・メディアの役割がありました。
 
  ところが、今回の中国漁船衝突事件の現場映像流出の事件では、「事実を知らせたい」と考えた海上保安官がコピーしたデータを、マス・メディア—例えばNHKや大手民放ではなく、街のネットカフェから自分の手で、youtubeに投稿したのでした。
  やはり今年、議論を呼んだ米国のドキュメンタリー映画「The Cove」について、私は本ブログで「どんなに映画の上映を止めても、情報を抑えようとしても、逆に注目され、無数の穴から浸水するように情報が流れ出し、誰の目にも周知のことになってしまうのが、インターネットの時代なのだと思います」(同『異文化をどう伝える〜鯨をめぐる経験』から)と書きました。同様のネットの力が、「機密」を一瞬にして「周知の事実」にしてしまいました。

  また、「内部告発の受け皿はマス・メディア」という伝統的な観念もネットの時代には通用しない、という現実も、私たちは見せられました。
  もちろん、情報源を守ることは記者の鉄則ですが、そうした他者への接触や取材のプロセス、それに伴い自らの素性をさらすリスクも抜きにして、クリック1つで不特定多数の人々への内部告発を行える-という事例が生まれたわけでもあります。
  これまでも、ネット上には検証不能な匿名情報が海のようにあふれていましたが、今回の流出映像は、事実そのものでした。投稿者自らが翌日に消去したといいますが、その短時間に映像データはコピーにコピー、転載に転載を重ねられ、テレビでも放映され、反響はおそらく個人の想像力をはるかに超えて広がったことでしょう。さながら衝撃波のように、世論や政局、国際関係をも揺り動かしました。
                   
                    ◇

  「もし」が許されるなら、もし”WikiLeals”のウェブサイトに日本語版があったなら、流出映像の投稿者は迷わず選んだことだろうか?−という仮想の問いが湧きました。
  ”KEEP US STRONG / HELP WIKILEAKS KEEP GOVERNMENTS OPEN”  (われわれに強さを保たせて / ウィキリークスが諸政府に公開をさせ続けるのを手伝って)
  ”WikiLeaks”のサイトの表紙に掲げられた一文で、つまりは国家的・国際的な「隠し事」を知る世界中の関係者に向けた内部告発の呼びかけです。

  ”WikiLeaks”の名前を今年、衝撃とともに世界に知らしめたのが、イラクのバグダッドで07年7月、米軍の攻撃ヘリが街頭にいた市民やジャーナリストら10数人を敵と誤認して銃撃した事件の生映像(同じヘリからの空撮)暴露でした。
  同サイトをのぞくと、創設者ジュリアン・アサンジ氏(10代でハッカー経験があるという経歴のある豪州人)の写真の下に、25万通に上る米国の外交公電(在外大使館発を中心に)や、イラク、アフガンの米軍部隊発の「戦争日誌」が、そのままの形で公開されています。英文でもあり、それらの意図や価値がすぐに分かるわけではありませんが、「機密」「秘密」「極秘」に分類されたテキストの山に驚くばかりです。

  日本の中国漁船衝突事件の映像と同様の流出、漏洩情報で、既に23歳の米陸軍上等兵が逮捕されました。報道によれば、「人気歌手レディー・ガガの曲が入ったCDを装い、機密データを簡単に持ち出したと説明した」といいます。手間と時間、複写機を必要とする紙の文書とは違い、デジタル化されたテータのコピーも一瞬です。上等兵という立場の人間もかんたんにアクセスできたほどの「機密」性という点では、海上保安官の例とも通じるところがあるかもしれません。

米国でもまた、クリントン元大統領の時代、自身の管理がずさんと問題にされたある機密情報が、当時は10人足らずの政権トップだけに共有されていたのに、その数年後には200万人がアクセス可能だった-という笑い話のような実態もあります。ここでも「機密」とは何なのか、という話になります。

  動機めいた話では「ずっと独りぼっちだった」と、バグダッドの基地に派遣されていた上等兵は友人とのチャットでこぼしていたそうです。
性善説、性悪説とありますが、私はどちらにも立ちません。柳田邦男さんのいう大事故や組織での「ヒューマン・エラー」と同様に、人間にはあらゆることが起こる、というところからしか始まらないのではないか、と思います。

  「日本は太った敗者。愚かさと質の悪い指導層、ビジョンの欠如が地位低下を招いた」(シンガポール政府高官が日本を酷評)、「怒りっぽくて権威主義的」「裸の王様」(フランスのサルコジ大統領)、「無能で役立たず」(イタリアのベルルスコーニ首相)、「マフィア国家」(ロシアについて)〜など、新聞の外信面をにぎわせた外交の舞台裏の”本音”の数々も、公開された公電内容のニュースでした。
  また、イラクでの民間人の死者が約66000人に上り、米国や英国が認めていなかった死者が約15000人もいることを示す機密文書も公開された、と伝えられました。

  外交公電のリストのうち、「東京発」は、米国務省、トルコ・アンカラ、バグダッドについで4番目に多い、とあります。日米関係についての関連ニュースでは、日米が共同開発しているミサイル防衛の設備を、欧州に売却可能にするため、米政府が日本側に武器禁輸の三原則を見直すよう求めていた−との内容が紙面に載りました。
  この報道に先立って、訪米した前原誠司外相がワシントンで「三原則の緩和を検討する」と語ったとのニュースがあったり、新防衛大綱づくりでやはり三原則の緩和がにわかに議論されたりし(最終的に見送り)、その唐突な感ある動きの「なぜ?」に符合するような情報となったのでした。

                    ◇

  村上龍さんの小説「愛と幻想のファシズム」には、国家という存在が没落し、「セブン・シスターズ」と呼ばれる7つの多国籍企業が「経済」によって世界を支配する近未来の時代が描かれています。
  これと通じつつ、対照的だと感ずるのが、”WikiLeaks”が象徴するように「情報」が国家、超大国をも揺るがす力となった2010年の世界のありようです。
  
  米国のメディアやジャーナリズムの最新の事情を知るのにとても役立つ、”PressThink”という評論ブログがあります。筆者のジェイ・ローゼン氏はニューヨーク大教授。全米の地方紙による「シビック・ジャーナリズム」運動の創始者の1人で、私も自著に紹介させてもらったことがあります。
  最近の”PressThink”でローゼン教授は、2010年に書いたブログのベスト10を選んでおり、その4位と10位に”WikiLeaks”についての評論がありました。そこで、この内部告発・投稿サイトを、「世界で最初の『どこの国にも存在しない(stateless)ニュース機関』」と分析しています。

  「”WikiLeaks”は、アサンジ氏がいる場所に存在する。世界中の何百人ものボランティアが複雑なウェブサイトの運営を助け、3〜5人がフルタイムで献身している。中心メンバーは”M”と頭文字でしか知られず、連絡は暗号化されたチャットで行われる。この秘密主義は、(米政府のような)強大な機関が公表を望まない情報の公開を目的として、重大なる敵をつくるゆえだ」
  「”WikiLeaks”は、ある国で弾圧されれば、すぐサーバーが別の国に移るように組織されている。いかなる政府や司法機関の手も届かないことを意味する」
  「ニュース報道のふるまいは、フェアプレイこそがこの国(米国)の伝統だった、とアピールする人々は、”WikiLeaks”の本質を見誤っている。それは、国益というものに関知しない情報の公開である。
  今に至るメディアの歴史では、強大な意思が守ろうとする秘密を報道するのは、報道の自由を守る法(米憲法修正第一条)があるがゆえに自由だった。ところが”WikiLeaks”は、インターネットの論理がそれを許すゆえに自由なのである。インターネットには地理的な住所も本部オフィスもないの同じく、”WikiLeaks”にもない。そこが新しい」

  ここでローゼン教授は、”WikiLeaks”を「メディア」と位置づけていますが、一連の秘密情報の公開は単独の行為ではなく、ニューヨーク・タイムズ、ガーディアン(英)、ル・モンド(仏)、シュピーゲル(独)など欧米の有力な新聞、雑誌にまず情報を提供し、独自の検証を託した上での世界的な報道となったのでした。いわば、「新しい」メディアと既存のマス・メディアとの協働の作業といってもいいものです。
  米国をはじめ各国政府から危険視され、告発されそうな”WikiLeaks”を、世界のメディアが「国益を損した」と一緒になって非難しないのはそのためであり、また歴史的な背景もあります。ローゼン教授は、有名な”Pentagon Papers”(1971年)、”Watergate”(72〜74年)という2つの事件に言及しています。 

  ”Pentagon Papers”は、米国防総省の秘密文書を指し、多大な犠牲を生んだベトナム戦争を、歴代大統領が泥沼化に至らせた経過を記した膨大なレポートでした。
  国防総省内部に深く関わったエルズバーグという人が、誤りを認めて戦争を終わらせねば−という良心から内部告発を決意し、コピーを受け取ったニューヨーク・タイムスが詳細な分析の上で公表記事を連載。当時のニクソン大統領が記事差し止め命令を求め、「国家機密の漏洩で国益(安全保障)に脅威を与える」と訴えましたが、連邦最高裁は「政府に証明責任がある」として却下。「国民の知る権利」と「報道の自由」を守りました。
  ”Watergate”は、民主党本部であった不法侵入事件がニクソン政権による盗聴関与疑惑につながった事件で、やはり政権内部情報の告発者(ディープ・スロートと呼ばれました)がワシントン・ポストの暴露記事に協力し、「大統領の犯罪」との世論の批判にニクソンは辞任に追い込まれました。

   ローゼン教授によれば、権力と「調査報道」のこうした歴史は、秘密主義を貫いた英国国会と新聞の闘いがあった18世紀から続いている、といいます。、”WikiLeaks”はその新しい形であろう、と。

  再びの「もし」が許されれば、もし日本の新聞に、”WikiLeaks”から日本政府や日米関係に関する重大な情報提供があったとしたら、私たちはどう受け止めるだろうか?  ニューヨークタイムスやワシントンポストのように、政府を相手に毅然と長期戦の調査報道を挑めるか?(西山事件の当時は、そうではなかったと聞きます)   その前に、”WikiLeaks”の出現が突きつける「いま新聞の役割とは何か?」との問いに、どうこたえてゆくか?−それが2011年への課題となります。
  

ジェイ・ローゼン教授 /「シビック・ジャーナリズムの挑戦」(寺島 2005年 日本評論社刊)より

2010/12/15 19:40

暮れの街に「メサイア」〜なぜかジミヘンも

  前回の「イマジン忌」にコメントをいただいたOZさんのブログ(『趣味いろいろの戯れ』)を読ませてもらいましたら、年末恒例のベートーベン「第9」のお話がありました。 もう、そんな季節ですね。15日には初雪も舞いました。

  仙台では毎年末、仙台フィルハーモニー管弦楽団が市民公募の「仙台フィルと第9をうたう合唱団」らと一緒に演奏会を開いています(今年は23日午後3時@東京エレクトロンホール宮城)。
  OZさんは数年前、第9をうたう合唱団にテナーで参加されたのですが、仕事の都合が生じ果たせなかったそうです。コメントを寄せたお一人のカコママさんも以前、メゾソプラノで「第9」の合唱を歌われたとのこと。

  思い出すと私は26年前、赴任先だった山形県村山市(支局勤務でした)が市制30周年記念で山形交響楽団の「第9」演奏会を開いた折、テナーの合唱を歌ったのが一度きりの体験です。
  いきさつがありまして、地元の音楽好きの人たちが「第9」を歌う市民合唱団を募り、その最初の練習の模様を取材に行きましたら、「男が足りないから、あんたも入れ」と予期せず引き込まれたのでした。

  ドイツ語の読みから始まって4カ月ほどの練習の末の本番は、第3楽章が終わるまで長い長い緊張の時間の後、嵐のような、巨大な滝のような音楽に一気にのみ込まれ、格闘した印象でした。
  スポーツに例えると、短距離でも「最も過酷」といわれる400メートル走でしょうか。
  しかし、テナーのじつに朗々としたソロと合唱は、天上まで突き抜けるかのような爽快さ、心地よさがありました。”ジャストミートの快感”のような忘れがたさが、皆が初体験の仲間と成し遂げた感激とともに、いまも胸にあります。

                     ◇

  「第9」はそれきりになりましたが、7年前から仙台の「メサイアを歌う会」(会長・柿崎六郎さん)の暮れのコンサートに参加しています(米国の大学でチャペルの合唱団に入り、3晩も続けて歌ったのがきっかけです)。
  「メサイア(救世主)」(ヘンデル作曲)のコンサートは今年で28回目(18日午後2時@仙台市青年文化センター)。やはり市民公募の合唱団が約120人、キリスト生誕から受難、復活までの物語を3時間にわたって歌います。

  こちらを例えれば、山あり谷ありのマラソン。知られた「ハレルヤ・コーラス」(神をたたえよ)は後半の頂点にあり、さらに最終盤に壮大な「アーメン・コーラス」が待ち受けます。マラソン奏者さながら、合唱団は胸突き八丁の急坂にあえぎつつ、最後の力を振り絞ります。
  途中に途中、ありがたい給水所のように独唱やオーケストラが入りますが、合唱は20曲もあり、歌い終えた後は抜け殻のように全身の筋肉がくたくた。「歌はスポーツ」と毎回、実感します。 

  ダスティン・ホフマンがまだ若いときの映画「ジョンとメリー」に、主人公のジョンが自分のアパートで吹奏楽のレコード(『王宮の花火の音楽』?)をかけ、「ヘンデルの”男っぱい”ところが好きなんだ」と語る場面がありました。
  同感です。楽器に例えるとトランペット(とりわけテナーは)。輝かしく、メロディーが明快で、短調でも気高く、朗々と高らかに響きます。バロックの同時代人・バッハの深みや宇宙性に比べるとちょっとシンプル、という声もありますが、おおらかに歌える気持ちよさは比類のない感じがします。

  仙台での「メサイア」演奏の由来は古く、記録に残る初演は1926年、宮城学院創立40周年の記念音楽会で「ハレルヤ」など2曲が披露された、とあります。
  さらに戦後ほどなく、東北大、東北学院、尚絅女学校の学生らが「仙台ボランティア・コワイヤ」を結成し、「メサイア」演奏会を開いたそうです。以来「メサイア」は仙台に根付き、歌い継がれてきた歴史があります。
  「メサイアを歌う会」の実行委員会には、そんな杜の都の合唱草創期につらなる時代を知るベテランもおり、また「1度歌って、人生の宝物のようにやめられなくなった」「年をとり、いつまで続くか。でも、自分に挑戦したくて」と語る常連たちもいます。

  今回のソリストのうち、ソプラノは仙台出身の管英三子さん。世界的なコロラトゥーラ(女声の最高音域)で、仙台北教会の牧師一家に生まれて「メサイアは愛着深い音楽」といいます。
 本ブログの『管英三子さんを聴かれましたか』で紹介しましたように、長年ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者・家族を招いてのクリスマス・コンサートを無償で開催。収入をそっくり患者会(日本ALS協会宮城県支部)支援に寄付してきました。(患者会の活動も本ブログ『「誰もが発信できるためには・・ALS患者の声から』で紹介しています)

  管さんの手作りコンサートは11年続いて一昨年終わりましたが、「メサイアを歌う会」の指揮者工藤欣三郎さんをはじめ、彼女に共感し一緒に歌ってきたメンバーが今回、その志を引き継いで患者会の人々を招待しました(11月28日付の河北新報交流面に、その話が紹介されています)。
  「歌を愛する人たちがいて、歌でつながる場をつくれる。こんな街で歌えるのは幸せ」(管さん)という思いを、年の瀬に分かち合えるコンサートになりそうです。

                    ◇

  ここからは余談です。この夏、ロンドンに旅した折、偶然にも「ヘンデルの家」を見つけました。
  もともとドイツ人の彼は、仕えた王侯の英国国王就任に伴ってロンドンに移り住んだのですが、「メサイア」などの傑作を生み出した家(アパート)は、繁華街のど真ん中にありました(1759年の死去まで36年間の自宅兼仕事場)。この出合いも縁でしょうか。

  当時を再現する博物館になっていて、そこになぜか、ジミ・ヘンドリックス(伝説的なロック・ギタリスト)の大きなポスターがありました。
  なぜ?と思わず尋ねると、博物館の人が「ジミーとヘンデルとは隣人だったんです(??)」と答えました。

  じつは、ジミヘンは晩年の1968年、ヘンデルの家の2番違いのアパート(ブルック・ストリート23番地と25番地)に居を構え、その偶然にびっくりしたとのこと。この奇縁に興味をもって、ヘンデルのレコードをたくさん買い集めたそうです。
  いまはヘンデル博物館の事務室になっているジミヘンの旧居宅を、没後40年となった今年の命日(9月18日)に合わせて遺品ともども公開する−というイベントがあるとのお話でした。

  残念ながら旅程はまるで合いませんでしたが、「偶然」もまた時を超えた縁となって人をつなぐ−という不思議な感慨を味わえました。
  



18日のコンサートに向けた「メサイアを歌う会」の練習



「ヘンデルの家」@ロンドン

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