Cafe Vita

 このブログは、仙台在住のジャーナリスト、寺島英弥が2009年から職場で暮らしや文化、日々の出来事をテーマに書いており、11年3月の東日本大震災で中断したままになっていました(以後のブログは『余震の中で新聞を作る』をご覧ください)それから6年ぶりに、もはや職場とは関係なく、また書き出そうと思います。

2011/02/09 21:30

"Facebook"と革命〜エジプトも変えた「情報の自由」

 40年も前のことを告白しますと、中学校のクラスで学級新聞を作っていた折(いちおう名称は新聞部)、仲間と思いつきで学年女子の人気投票を企画したことがありました。男子は投票で盛り上がりましたが、結果発表の張り紙は、まもなく現れた担任に没収されました。女子の冷たい視線から、自分たちがやってしまったことに気づきました。
 思い出したのは、『Facebook』という本(青志社)を読んで、女子学生の比較投票サイトづくりの話が出てきたからです。2003年、米国の大学2年だった19歳の主人公マーク・ザッカーバーグ氏の行為は、当然ながら学内で大問題になりましたが、その事件が、世界にいま4億人のユーザーがいるという交流サイト“Facebook”の原点になったと知りました。

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 母校のハーバード大は誰もが知る名門ですが、歴代大統領らを輩出した8つのエリート結社的な社交組織から、スポーツなどの部まで伝統的かつ排他的な縦割りの人間関係があるそうで、どこに属するかで将来や異性関係の成功も約束される−という狭き門への競争と疎外への恐怖を侵入学生は強いられる状況が、本では描かれています。
 また、同書によればザッカーバーグ氏は、着想したそのサイト(“Facemash”)を立ち上げるため、これまた伝統的な学生寮ごとに分断された学生名鑑(写真付き名簿)を、可能なものは寮のサーバーに易々と侵入してダウンロードし、それができない寮には夜中に忍び込んで、見つけたパソコンから目的のデータを取り込んだ−とあります。要するに「ハッカー」行為ですね。
 そうして創った新サイトは、数人の友人に試してもらうつもりでリンクのメールを出したところ、次々と転送されて、2時間後には22000人の投票があり、本人がネットの怖さに驚いてサイトを閉鎖したそうです。(担任に没収され叱られた時代の話では、もはやありません)

 映画「THE SOCIAL NETWORK」(社交のネットワーク)の原作とされる同書は、ザッカーバーグ氏からインタビューを一切拒まれ、彼のブログや取り巻いた人々への取材などを基に書かれたとのこと。新サイト立ち上げ時の経過も、当時のブログに克明に語られている、と筆者(ベン・メスリック)は記し、その心境をこう代弁しています。
 「『大義』とは何か。それは『情報の自由』と呼ばれるものだろう。(中略)情報は共有されるためにある。画像は見られるためにある」(前掲書より引用)。エリカという女子学生にフラれたことが動機と映画は描いていましたが(ご当人は否定したとの話)、行動の核心には不自由で閉塞したキャンパスの現状を打破したい、という情熱と欲求があったのかもしれません。 
 そういえば、内部告発サイト“WikiLeaks”の創始者ジュリアン・アサンジ氏も、16歳ころからハッカー行為を始め、そのころの信条には「情報を共有する」があったといいます。(本ブログ『私選・2010年一番のニュース〜流出・告発とネット時代』参照
 創りあげたツールの外観は全く違いますが、その根っこに共通する精神があったらしいのは興味深く思われます。

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 “Facebook”は、サイト上のそれぞれのページに日々のアルバムを設け、そこにコメントを投稿し合ったり、別の友人を誘ったり、そうした「友人」のリストに載せた中から共通の知人を見つけたり、新たな交流相手を探したりして楽しみ、交流を広げてゆく「社交のネットワーク(人脈)」づくりの場です。
 私もユーザーです。さかのぼると2008年11月が最初です。米国の友人から「こういう便利なサイトがあるから、キミもやってみろ」とメールで誘われ、写真での近況報告を始めました。以前、留学で7カ月を過ごした同国の大学の友人らとの接点づくりから、だんだんと「友人」は増えて、私の“Facebook”にも今、56人が登録されています。
 いちいち写真を個別、複数の相手にメールに添付する必要がなく、「友人」のネットワークで共有できるので、ちょっとした近況の変化もニュースとして知ることができます。“画像付きのTwitter”のように使ったり、実際に居合わせた現場の出来事を投稿したりする人もいます。とりわけ外国の取材現場などの写真をリアルタイムで紹介されれば、ニュースそのものになります。
 それらの機能を備えた「成長する社交の場」こそが、幾多の「出会い」のサイトとは違うザッカーバーグ氏の発明とされ、彼は世界最年少で億万長者番付の住人になったのでした。ハッカー的着想と行動から創られた大学内の自由な社交サイトが、わずか数年のうちにカネと欲、裏切りにまみれた巨大ビジネスと化してゆく経過を、、『Facebook』という本は面白く読ませます。

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 世界中に4億人を超える利用者がいるという“Facebook”に、『We are all Khalad Said』という名前のページがあるのを知りました。Khalad Saidとは28歳の男性の名で、「我々はみなKhalad Saidだ」という意味。このサイトからこの2週間ほど、目を離せないでいます。

 エジプトの大都市アレキサンドリアの小柄なビジネスマンだったというKhalad Said氏は、街のネットカフェにいたところを突然、警察官たちに引きずれ出され、暴行を加えられ死亡しました。彼は、警察官たちが押収品のドラッグを横流しする様子をとらえたビデオ映像を、自身のブログから流し、その行為に対する報復だったとみられています。
 エジプトの警察の腐敗に対する市民の反感は強く、政府よりのマスメディアでなくネット上で告発する運動が広がっていたそうです。彼の死はネットで瞬く間に広まり、「われわれに対する脅しだ」と憤る声とともに、この事件をはじめ警察による市民虐待などをを告発する、『We are all Khalad Said』のページが立ち上がったそうです。
 
 独裁者を追い出した隣国チュニジアの市民革命を機に、『We are all Khalad Said』に集う怒りの声も、1981年以来続くムバラク大統領の政権そのものへ向けられ、「自由を取り戻せ」とのメッセージを発します。
 エジプト国内の批判的な人々を正規の法手続なしで逮捕し、 Khalad Said氏を拘束し暴行死させたものも、31年間もフェアで民主的な選挙がなかったのも、政権とともに続く「非常事態法」のためだったからです。
 、『We are all Khalad Said』には、アレキサンドリアや首都カイロなど、各地に広がったデモの生々しい映像や暴行された人の姿、運動に参加した人々の証言、連帯と決起を呼びかける投稿、海外の支援のデモの様子やメッセージなどがあふれ、さらに互いに離れた街にいる市民たちのリアルタイムの情報交換の場になっているようです。1つ1つの正誤を検証をする間もなく情報は流れ、事態は動いてゆきます。
そして、2月12日の早朝、絶大な権力から「ファラオ」と呼ばれたムバラク氏がついに辞任、というニュースが飛び込みました。

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 チュニジアの「ジャスミン革命」(国花にちなむ)は、同国の政権腐敗を伝えた米国の外交公電が“Wikileaks”で暴露され、それが引き金ともなって、やはり“Facebook”が大きな役割を果たしたと言われます。
 「情報の自由」を大義としたザッカーバーグ氏は、かつて大学の古い体制に風穴を開けた「社交のネットワーク」が、無数の叫びをエネルギーとする巨大台風のように進化を遂げた今を、どう見て、何を語るでしょうか。

 7〜8年前、私が米国に滞在した当時の「新しいメディアのチャンピオン」と言われたのは、韓国でインターネット新聞「Ohmynews」(オーマイ・ニュース)を創ったオ・ヨンホ氏でした。当時、多様な職種・地域から募った市民記者とプロが協働し、保守的なマス・メディアが書かないような政権批判のニュースを発信。世論を政権交代へと動かしました。
 06年、私が東京でインタビューの機会を得たヨンホ氏は、「ネットという自由な発信の場がある今も、なぜ、プロだけが記事を書き、大手メディアだけが情報を独占しているのか?」と問いました。おそらくその信条の根っこは、後進のザッカーバーグ氏にもながっているように思えます。

 ただ、“Facebook”を使ってエジプトから世界にリアルな「今」を伝えている人々は、もはや「市民記者」fではありません。時代は既にヨンホ氏の革命を追い越して、まさに誰もが発信する時になったのだ−という現実を受け止め、1つの政府をも打ち倒すほどの新たな情報メディアの革命の推移を、息をのんで見入るほかありません。
 遙かに離れた日本からでも、いますぐ、『We are all Khalad Said』にメッセージを送り、新聞の国際ニュースの現場に飛び込むことも可能なのです。さながら、ドラえもんの「どこでもドア」の1つの実現の形でしょうか。
 その先にどんな社会や政治のシステムが生まれるのか、あるいは情報を握り操る者が力を得る−という「情報の自由」の大義とは逆の世界になるのかは、まだ予想もつきません.。 


2011/02/06 15:00

被災・復興と地方紙記者〜栗駒耕英で聴く

 新幹線・くりこま高原駅から続く冬の田園風景は、やがて雪深い峡谷の道に変わり、大規模な山崩れの補修工事個所を何箇所も過ぎて、地吹雪の荒れる栗駒山(1627メートル)中腹の高原へ。私たちを乗せたマイクロバスは途中で、タイヤにチェーンを巻いて登りました。秋は紅葉の名所・いわかがみ平が終点のこの県道も、昨年9月17日に全面復旧したばかりです。

 4月から本紙記者になる若者たちの研修に同伴して先日、栗原市の耕英地区を訪ねました。この土地の名は、岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)にまつわるニュースで、誰もが耳にしたことでしょう。避難生活から戻って最初の冬を過ごす耕英の人々話を聴く機会を得ました。

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 標高約600メートル。宮城県丸森町耕野などから旧満州(中国東北部)開拓に渡り、敗戦で引き揚げた人々が1947年、原生林だった現地に入植したのが始まりです。
 イチゴと大根の高冷地栽培、イワナ養殖が主な生業だった耕英は、大地震による周辺の道路崩壊で孤立。住宅全半壊の被害も出て、41戸の住民の多くは昨年7月まで2年余り、ふもとの避難所・仮設住宅での生活を強いられました。
 それでも、「山に帰ろう」と合言葉として、大半の住民が離れ離れになることなく帰宅し、再出発。「開拓1世たち(現在は80代以上)の苦労思えば、われわれが結束して復興に挑まなければ。いろんな葛藤もあったが、その試練が耕英のコミュニティを強めてくれた」と、行政区長の金沢大樹さん(68)は語りました。
 耕英にあった工場の閉鎖、解雇などの苦難を経験した若い第3世代は今、イワナの寒風干しを新しい特産品にする事業に取り組み、豪雪の冬に客を呼ぶ交流できるイベントを探っています。若者の流出は耕英地区の悩みだったが、「震災は、古里で生きてゆこうという決意をさせてくれた」と斎藤仁志さん(30)=やまなみハウス企画開発部=。
 地元の人々は、こうした震災からの復興を「第2の開拓」と呼んでいます。

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 金沢さんは、被災・復興とメディアのかかわりも語ってくれました。  
 震災直後から、公営施設に置かれた避難所には、ワイドショーやスポーツ紙も含めてマスコミが殺到したそうです。疲れた住民がいきなりカメラを向けられたり、疲れて休む施設内に強引に上がり込まれたり、逃げる子どもが追いかけられたり、いろんなことが起きた。また住民の間でも、メディアへの露出や報じられた発言内容で波風が立つこともあったといいます。
 「行政区長という公平なまとめ役の立場から、不安のさなかにある住民を守る立場から、取材者には厳しいことを言わなきゃならなかった」
 「しかし、これから先の復興のことを考えると、マスコミの力も借りなきゃならない」

 金沢さんも、初めての経験で苦心腐心の日々だったそうだ。先の「山に戻るんだ」という決意の言葉は、避難所から7月に移った仮設住宅での住民の相談の場で、総意として生まれました。
  「誰が復興するのか? われわれ被災者が自ら主体となって進んで初めて、周りの人々も応援してくれる。そこがあいまいな『人頼み』では、復興なんてできない」と、当時の議論を振り返ってくれました。
 「それからのことを考えると、メディアの助けは必要だった。当初、殺到したマスコミは姿を消していったが」。そんな気持ちで、金沢さんは、震災発生以来、欠かさず通っていた河北新報の地元記者に声を掛けた、と語りました。

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  翌日、栗駒山の真っ白な山頂が朝日に浮かんだ耕英地区を後にし、記者の卵の若者たちと一緒に、ふもとの若柳支局(栗原市)を訪ねました。
 震災発生時、支局の記者は赴任から2カ月目だったという。”メディアスクラム”状況になった避難所取材の初期、当の記者は「自分はこの先3〜4年はいるだろう。住民を長い目で見守る立場にたとう」と自覚し、難しい距離感を保ちながら行動したそうです。それを、金沢さんも冷静な目で見ていました。
 予期せず声を掛けられたのは、避難所から仮設住宅に移った、被災後1カ月のころだった。「君はここにいるんだね。頼りにしています」
 
 耕英に通じる仮設道路ができたのは同年8月。以来、記者はこれまで「80回は通ってきた」と言う。「耕英の人たちが大好きになった。正直、住むのは厳しいところ。新潟の中越地震では、集団移転した被災集落もあったそうだ。どんなに苦しくても、彼らはそんなことを考えなかった。プライドのある人々だ」
 前日、話を聞かせてもらった耕英の人たちに高倉吉雄さん(53)がいた。勤め先の被災で職を失った元料理長。ふもとの栗原市内外では賃金が安く、仙台に新天地を求める選択もあったのに、「残って復興を助けたい」ときっぱり取材に語ったという。今は、後輩の斎藤さんらと新事業の成功を目指している。
 「取材を受けて新聞に出ることで、自分たちを追い込んで、それを励みにしている」と、高倉さん、斎藤さんは語ってくれました。

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  若柳支局や地元のもう1つの栗原支局、それに応援の報道部記者らも書き継いできた記事に、社会面の随時連載「歩む 前へ」があります(これまで34回)。筆者もファンで、楽しみにしてきました。
 養魚業、介護支援員、郵便局長、温泉宿経営、養護教諭、高校生、畜産農家…。震災とは、地域のあらゆる人と家族、仕事、暮らしを巻き込み、人々はその体験を共有しながら、それぞれの現場から、できるやり方で前へ進んでいる。その一歩一歩が復興への歩みであり、その主体とは一個一個の住民−。
 事実と思いを淡々つづる物語の数々が、そんな主張と取材者たちの共感を伝えてくれます。金沢さんも登場した、このシリーズを私は楽しみに読んできました。
 「いろんな人に話を聴きながら、首長より政治家より重い言葉を聞くし、一人一人が主人公という思いがある。それが、われわれのニュースなのだ、と知りました。震災で耕英の人々と出会い、私の人生も変わりました」
 そこにとどまり、当事者と同じ時間を生きる。それが、地方紙記者の仕事の本質です。 いずれ記者となって地域に飛び立つ若者たちも、感じてくれたでしょうか。


栗駒山おろしで積雪も凍る耕英地区の冬



「震災体験の語り部活動をしたい」と話す金沢大樹さん

2011/01/31 18:50

リテラシーって何?再考〜東宮城野小の教室から

 久しぶりに小学校の教室を訪ねました。「取材」をしよう、という頭の段取りも緊張感も忘れさせてしまう、子どもたちのわいわいという歓声が待っていました。
 仙台市宮城野区の東宮城野小。みんなで18人の5年生が、写真のようにパソコンをのぞきこみながら、映像の番組作りをしているのです
 これは、本ブログ「 リテラシーって何?〜五橋養筆堂」でご紹介した関本英太郎教授ら、東北大大学院情報科学研究科の教員や研究生が指導役となって、「情報って何か? 伝えるってどういうことか?」を実践を通して学ぼう−という小学校との連携授業です。1月28日付の河北新報交流面でも紹介させてもらいました。

 その年頃のわが子がいないと、小学生の教科書を開く機会などなかなかありません。あらためて知ったことですが、5年の社会には「わたしたちの生活と情報」という単元があって、暮らしに深く関わる情報とメディアの役割をじつに詳しく勉強します。
 また、国語の教科書でも、新聞記事を読もう、自分新聞を作ろう、写真の撮り方、インタビュー名人になろう、ニュース番組をつくろう−といった内容を4年から6年まで学びます。
 昔では考えられなかったほど、メディアの影響は子どもたちの成長環境に浸透しており、それゆえにさまざまなメディアの特性を正しく知って、受け取る情報を読み解き、選び取り、自らも表現し人に伝える力を身につける。それが、「生きる力」として必要な時代になったというのです。 

                       ◇

  さて、東宮城野小の5年生たち。従前見慣れた授業とは景色が違います。子どもたちは、「テレビ班」「新聞班」「CM班」と3つのグループに分かれ、指導役の先生たちを囲んで、パソコンや壁に映したビデオ映像をながめながら、プロさながらの「編集会議」をしていました。
 それぞれにディレクター、インタビュアー、カメラ(ビデオ)、ナレーションなどの役目があり、場面ごとの絵コンテも議論に登場します。

  「材料を集めたから、さあ、きょうはテロップを考えよう。宿題のタイトルも集めるよ」。CM班を指導しているのは、院生で、テレビの仕事経験を持つメディアジャーナリストの後藤心平さん。こういう方々が先生です。
 CMとは、自分たちの学校を街の人たちに紹介する番組のこと。流通関係の会社や倉庫が集まる地元の卸町界隈や、学校のシンボルの木、自慢の「手作り給食」などを撮ってきたそうです。
 「そうそう、もっとあるよね。『あけぼの太鼓』」「校長先生に取材しなきゃ」。なんと、古タイヤの太鼓の演舞で、歴代の6年生が受け継いでいるとのこと。

 「テレビ班」は、東北放送の朝番組「ウィッチン!みやぎ」のリハーサルを午前6時半に訪ね、どんなふうに番組が作られていくのを取材。ディレクターや司会の名久井麻利アナウンサーにインタビューして、その役割も調べました。
 「新聞班」は、河北新報の夕刊の編集会議に入って取材し、朝一番に世界中から集まった情報から、どのようにしてニュースが選ばれるか、を取材してきました。
 「インタビューは面白いけど、(撮った映像の)どこを選ぶかが難しい」と、子どもたちは口をそろえます。限られた時間の番組で、使えるのはごく一部。「どの部分を選ぶか」は、「何を伝えたいか」があらかじめ議論され共有されて、初めてできること。いわゆる、「テーマ」と「編集」です。

 「新聞班」の番組では、みんなで考えたこんなナレーションを吹き込んでいました。
 「ぼくたちは取材で、『玉石混交』という言葉を知りました。よいものもわるいものも入り交じっている、という意味です」
 「新聞社の人たちは、玉石混交の情報から正しいものを選び、読者へわかりやすく伝えるための努力や工夫をしていることを知りました。また、そのような努力をしても、間違って伝えてしまうことがあることを知りました」
 「ぼくたちも情報を扱うときは、その努力を思い出すようにしたい」というのが結びですが、自分たちも番組作りをすることで、情報を伝える側の難しさ、危うさ、それゆえ守るべきことを知り、発信者としてのスキルを学ぶ−というのが、4カ月にわたるワークショップ形式の授業を通しての関本さんたちの狙いでした。

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 「伝えられるのは、ほんとにあったことの一部」という現実を知ることがリテラシー教育の基本−と、先のブログ「リテラシーって何?」で関本さんのお話を紹介しました。このテーマは、私が関本さんらと一緒に催している「五橋養筆堂」の1月29日の講でも再び議論されました。
 テレビや新聞のニュースも、あるいは映画も、ひとつのフレーム(枠=視点=テーマ=時点)を通して事実の一部を切り取って作ります。
 見る側は「フレームの外にあるものに常に感性を働かせる」(関本さん)必要があり、これは東宮城野小のワークショップのように、伝える立場を体験させて初めて説得力を持ちます。受け手としても伝えてとしても、その感性を子どものうちから養うのが、リテラシー教育なのだと思います。
 (あるいは、ある風光明媚な観光写真を見せて後、実際に現地につれてゆき、電線や看板だらけの周辺をいかに巧みに避けて写真が撮られたかを肌で知ってもらうか、とか。こういう幻滅は日常ありますね)

 今年4月からは小学校の国語の教科書で、記事の読み比べ、投稿を書く、新聞を作る、など新聞の活用が大幅に盛り込まれ、社会科の「生活と情報」教育も同様です。ただ、とりわけ社会科で、学校の現場はこの変化への対応に大わらわだそうです。
 それは、情報やリテラシーを体験学習を通して教えられる知識・スキルの研修がこれまで全国でもなかったためです。仙台市では先日、関本さんと市教委が連携し、情報・リテラシー教育の先進地である台湾から指導者を招いた研修会を催しました。東宮城野小のワークショップも、これから貴重な生きたテキストとして活用されることでしょう。

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 新たな対応を迫られているのは、新聞の世界も同様です。子ども向けの新聞媒体も、この新年から全国で次々と登場しています。
 小学校の高学年や中学校でお話をする機会に、「ネットをやっている人」と問うと、クラスのほとんどの子が手を挙げますが、「新聞は読みますか?」との質問には、3〜4人くらいでした。

 東宮城野小でも、番組の編集ソフトを自由に楽しげに扱い、「さすがIT時代の子たち。家にやっとパソコンが登場したころの自分たちとも違う世代」と、担任の30代の先生も驚いていました。

 そんな子どもたちに、新聞というメディアにどう触れてもらえるか。そして、子どもが長年決して主なる「読者」ではなかった新聞が、どう変われるのか。逆に言えば、作り手自身のこれまでの新聞観を、もはや「リテラシーの主体」たる子どもたちの視点も取り入れて、どう変えてゆけるか−というチャレンジングな時だとも言えます。

 学校という場でこれだけ時間を掛けて情報やメディアについての教育を受ける世代も初めてでしょう。メディアの最も鋭く厳しい評価者たちになりうると同時に、最新のメディアも楽々と使いこなすスキルも身につけた「発信者」が、何百万人とこの社会に育ってゆく時代ともなります。
 アカデミックな機関かOJT(現場の職場教育)かの狭い枠で論じ合っていた日本のジャーナリスト教育の根本も、大きく変わりましょう。

 その時、新聞はどう生きるのか? 最後はやはりこの自問になります。

 

 

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